3-1「谷鉄臣贈位書類」 大正6年(1917)
彦根藩士・谷鉄臣の贈位について犬上郡長からの申請書に添付の事績調書です。谷への贈位は残念ながら不充分として見合わせられましたが、この調書からはその実績を詳細に知ることができます。長崎にて蘭方医学を学んだ谷は、彦根に痘苗を持ち帰り、近江で種痘をはじめました。安政2年には井伊直弼も有効性を認め、種痘は一層普及することとなります。【大え62(29)】
3-2「種痘規則定む」 明治5年(1872)9月
明治5年9月、県は種痘規則を定めすべての幼児に種痘を受けさせるよう命じます。当時の松田道之県令は、種痘を受けさせなかったことにより幼児が天然痘に罹り命を落とすようなことがあれば、その父母は「天地ノ罪人」であるとまでいい、種痘の徹底を図りました。【明い31-2(24)】
3-3 「寄留者は種痘証携帯の件」 明治20年(1887)3月3日
本県では、種痘を徹底するため、接種が済んでいるかどうかを戸籍に赤丸を付すことで管理していました。よって、16歳未満の者が他府県へ、もしくは他府県から寄留する場合は、戸籍証とともに種痘(天然痘)証を携帯し、寄留先へ提出することでその接種を証明する必要がありました。【明い4-1(9)】
3-4「種痘の徹底に関する件」 昭和21年(1946)5月15日
昭和21年には外国からの引揚者の影響により天然痘が流行し、本県でも154人の患者が確認されました。連合国軍最高司令部からも、未種痘者と患者の発生した町村での徹底的な種痘が指示されています。徹底的な種痘実施の甲斐あってか、本県での天然痘患者はこの年を最後に確認されていません。【昭そ68(16-9)】