4-1「避病院の設置」 明治10年(1877)10月12日
コレラに感染した患者は、田舎の者を除き全員避病院で隔離されることとなり、県内各所に避病院が設置されました。その場所は、西南戦争に出征した兵士の帰路となる東海道や中山道の各駅で、それぞれ軽症者用と重症者用に分けて設置することとされました。【明い92(195)】
4-2「コレラ病のため火葬場設置等の件達」 明治13年(1880)6月4日
県は明治13年、「虎列刺(コレラ)病屍ハ火葬セシムルヲ十全ナリトスル」として、火葬場の設置を促します。その場所は、「人家隔離ノ地」かつアクセスに支障のない場所としています。また、埋葬地についても、一般のものと区別し河畔や道端田圃の近くや砂地は避けるように指示しています。【明い114-1(9)】
4-3「湖上汽船での検疫の実施」 明治18年(1885)10月19日
検疫もコレラの流行に対処するため導入された対策方法といえます。主に海港に設けられた検疫ですが、コレラの流行時には本県にも臨時検疫本部が設けられ、明治18年の流行時には湖上汽船でも検疫が実施されていたことが、史料からはわかります。【明い161-1(41)】
4-4「終息後の予防清潔方法」 明治19年(1886)12月13日
これまでは感染症が流行するとその都度対処にあたっていましたが、次第に「未発ノ時ニ於テ土地ヲ清潔ナラシムルハ予防方中最モ緊要ナリ」と、事前に予防を行うようになります。特に「汚湿不潔ノ地」は病毒が繁殖するとして、下水溝や厠圊、芥溜の改良および清掃が行われました。【明い167-2(8)】