展示期間 令和3年8月2日(月)~令和3年10月28日(木)
昨年度当館では、昭和戦後期の文書3,774冊を新たに受け入れました。その中には、琵琶湖の内湖干拓の歴史を示す資料も多数含まれています。
琵琶湖には、戦前40あまりの内湖がありました。しかしこれらの内湖は耕地への転用のため次第に干拓されていき、大中の湖をはじめ、松原内湖や入江内湖など、多くの内湖がその姿を消しました。
今回の展示では、なぜ大規模な干拓が推し進められたのか、干拓により内湖の姿がどう変化したのか、新しい大地にはどのような人々が移り住んだのかなど、内湖干拓の歴史を歴史公文書から振り返りたいと思います。
1 内湖の原風景 | 2 内湖干拓計画の起こり |
3 消えゆく内湖 | 4 新たな大地で生きる人々 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖干拓物語―消えゆく内湖と新たな大地―
- 参照数: 2879
1-1 「内湖の利用状況」 昭和16年(1941)10月
昭和16年時点(干拓以前)の内湖の利用状況について記された資料です。県経済部調査課が内湖干拓計画の下調査として作成しました。当時の琵琶湖周辺には40以上の内湖があり、漁場や、肥料として利用する水産物(泥・藻など)の採取場、かんがい用水として利用されていたことがわかります。【昭ね9(1)】
1-2「松原内湖見取図」 明治39年(1906)10月22日
干拓以前の松原内湖(彦根市)の見取図で、『漁場図綴込帳』に綴じられているものです。内湖内には、エリ漁の存在が確認できます。松原内湖は、昭和19年から同22年にかけての干拓工事でなくなりますが、この絵図からは干拓前の様子がみえてきます。【明つ39(152)】
1-3 「元禄元年中湖漁獲区域図」 昭和5年(1930)4月
元禄元年の中の湖の漁獲区域を表した絵図です。オレンジ色で表されている場所がヨシ地で、内湖沿岸に広がっていることがわかります。ヨシは、琵琶湖の主要な水産物のうちのひとつで、よしず(ヨシ製のすだれ)や屋根の素材として利用されてきました。【昭こ305(1-2)】
1-4「安土遠望」 昭和初期
安土山が内湖に囲まれていた時期の貴重な写真です。左手には安土山、安土山を囲むように小中(しょうなか)の湖、その奥には大中(だいなか)の湖が見えます。写真には写っていませんが、左側には西の湖があります。小中の湖は昭和17年に、大中の湖は同21 年に干拓工事が開始され姿を消しましたが、西の湖は洪水調整池と背後地の用水対策のため残されました。【資570】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖干拓物語―消えゆく内湖と新たな大地―
- 参照数: 2622
2-1「湖岸干拓に関する意見書」 昭和7年(1932)12月20日
昭和7年に県議会から知事へ出された琵琶湖干拓に関する意見書です。本県は、地形的にも耕地面積が極めて少ないので、耕地を増大し「県財政の資源を造成」するとともに、食糧問題などを解決するために、干拓事業を県主導で推し進めてほしいと要望しています。【昭き4-1(16-5)】
2-2「内湖干拓に関する知事引継書」 昭和9年(1934)10月
耕地の増大は県も「緊要事項」と位置付け、昭和9年の伊藤武彦から村地信夫への知事引継書でもその記述があります。ここでは、水源が容易に得られて、耕地に転用でき、しかも工事費が最も少額な未開墾地は、琵琶湖岸の池沼(内湖)であるので、この干拓についてよく考えるよう次期知事に求めています。【昭お6(9-5)】
2-3「諮第1号干拓埋立問題答申書」 昭和12年(1937)7月
昭和10年、琵琶湖の多様な利用方法に関し調査および審議をするため、「琵琶湖対策審議会」が発足しました。ここでは諮問第1号として琵琶湖干拓についても採り上げられました。本資料はこの諮問に対する、昭和12年7月の最終答申書です。干拓はぜひ実現を促進すべきであるが、治水および水産業への影響を特に考慮しなければならないと結論付けています。【昭ね8(2)】
2-4「琵琶湖干拓に関する建議」 昭和16年(1941)12月
本章で見てきたように、県内からはたびたび内湖干拓の計画が出されてきましたが、湖面相殺法(常水位の水面積維持を条件とした水利や湖岸利用の適否判断)や県下からの反対意見に阻まれてきました。しかし、食糧問題の緊迫する国情に鑑みると、一刻も早く干拓事業を完遂するべきなので、県営により速やかに実現するよう県議会から再度要望がありました。【昭き6-3(5)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖干拓物語―消えゆく内湖と新たな大地―
- 参照数: 2246