展示期間 令和5年10月23日(月)~令和6年1月18日(木)
明治23年(1890年)3月の完成以降、今もなお現役の都市基盤施設として京都を支えている琵琶湖疏水は、京都と滋賀の関係を語る上で度々話題にのぼりますが、開削当時の人々はどのように感じていたのでしょうか。当館所蔵の資料を紐解いていくと、そこに切実な問題があったことがわかります。
明治16年(1883年)に、琵琶湖と京都をつなぐ琵琶湖疏水計画を京都府から知らされた本県は、それ以降どのような対応を行ってきたのでしょうか。また、人々にはどのような影響があったのでしょうか。
今回の展示では、この明治の一大プロジェクトを水の供給源である滋賀県の視点から見ていきたいと思います。
1 琵琶湖疏水計画のおこり | 2 疏水工事 | 3 県民への影響とその補償 |
4 琵琶湖疏水の完成 | 5 ポスト琵琶湖疏水計画 | 展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 滋賀県からみた琵琶湖疏水
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1-1「琵琶湖疏水の目論見京都府より照会に付取調方」 明治16年(1883年)11月12日
明治16年、京都府より琵琶湖疏水の目論見書(計画書)が届いたことにより、県は3名の職員(一等属)に事務取調を命じました。その後本県では琵琶湖疏水による湖水位への影響や、疏水により断絶される道路や水脈、灌漑用水の不足などについて調査を行っていくこととなります。【明い140-2(139)】
1-2「琵琶湖疏水図」 明治17年(1884年)12月
京都府による計画は、琵琶湖(三保ヶ崎)から京都府高野川までの延長7,030間(約13km)を開削するもので、その目的は、運輸の便、水力による工業発展、飲料水や防火用水・灌漑用水の確保などにありました。【明ね34(1)】
1-3「琵琶湖疏水の儀に付上申」 明治17年(1884年)3月19日
京都府は起工趣意書で、運輸の便は東は近江国から西は摂津国に及び、「内外公益ノ大ナル」は計り知れないと他府県への利益も説明します。一方の滋賀県は勧業諮問会を開催し、疏水事業に対する利害得失の検討を行いました。本資料はその意見をまとめ国へ報告した文書で、疏水事業は水利への影響が予想されることから、本県にとって「到底有害無益ノ事業」であると批判しています。そのうえで、流水量を調整するなどの予防策を講じる必要性を主張しています。【明ね33(17)】
1-4「籠手田安定任元老院議官、中井弘任滋賀県令9日宣下」 明治17年(1884年)7月10日
明治17年7月9日、滋賀県令であった籠手田安定が元老院議官へと転任し、その後任として中井弘が任命されました。この人事の背景には、琵琶湖疏水の建設に反対の籠手田を昇進のかたちで元老院に転出させ、北垣国道京都府知事とも親しく、土木事業にも大きな関心を持つ中井を抜擢し、疏水事業を推し進めたいという参議(政府の重要官職)らの意向があったようです。【明い153-2(17)】
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2-1「琵琶湖疏水東口掘割工場」 明治19年(1886年)
第一トンネル東口(三井寺)付近の工事の様子を写したものです。民家の間をまっすぐに水路が突き抜けていることがわかります。両岸や橋の上には多くの人が集まり、この大工事を見守っています。【資576】
2-2「琵琶湖疏水用地反別地価地代取調表」 明治18~19年頃
町村ごとの琵琶湖疏水用地に対する地価と買い上げ代金を県がまとめた表です。用地買収時の代金の請求・下付は県を介して行われ、社地や宅地は地価相当、林地や畑地といった利益を生む土地は地価の約3割増しで買い取られました。また、工事完成後不要となった土地は、旧所有者へ優先的に払い下げられました。【明ね36(13)】
2-3「伊庭官林松樹伐採取調表」 明治20年(1887年)1月16日
この資料は京都府からの木材の領収書です。神崎郡伊庭官林から領収した松が一覧で記載されており、この時2,000本が伐採され、疏水用材として京都府へ引き渡されたことがわかります。最終的に使用した木材は総延長500万才(約14万㎥)に及びました。【昭な201-2(1-1)】
2-4「使用物料一覧」 明治25年(1892年)5月
疏水工事では木材だけでなく、様々な物資が大量に使用されました。明治17年から23年までに使用した主な建材および燃料を挙げると、煉瓦1,450万個、石材2万6千平坪(約8万6千㎡)、火薬7,000貫目(約2万6千kg)、石炭550万斤(約330万kg)に及びます。【明ね37-2(26)】
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