展示期間 令和元年7月29日(月)~令和元年10月24日(木)
平成31年(2019)4月26日、第16代滋賀県知事を務めた堀田義次郎ゆかりの資料52点を、親族の堀田清子様・綾様より本県にご寄贈いただきました。平成20年に開室して以来、当室が私文書の寄贈を受けるのは初めてのことです。
寄贈文書の中心を占めるのは、大正11年(1922)4月にイギリス王太子エドワード(エドワード8世)が来県した際の書簡や写真、記念品などです。エドワード8世は、アメリカ人女性ウォリス・シンプソンと結婚するために、イギリス史上最短の在位325日間で退位を決断したという「王冠を賭けた恋」の逸話で広く知られた人物です。まだウォリスと交際する以前の青年エドワードは、裕仁親王(昭和天皇)訪英の返礼として訪日し、琵琶湖遊覧の際に堀田知事のもてなしを受けました。
今回の展示では、このたび寄贈いただいた「堀田義次郎関係文書」を中心に、本県を訪れた外国貴賓の応接に関わる資料をご紹介します。エドワード8世をはじめ、アメリカ大統領を務めたグラントやロシア皇太子ニコライ(ニコライ2世)、満州国皇帝溥儀など、世界史を彩る要人たちを、本県はいかにもてなそうとしたのでしょうか。2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催を控える現在、本県の来賓おもてなしの原点をたどります。
1 外国貴紳接待掛の設置 | 2 大津事件の発生 | 3 英国王太子の琵琶湖遊覧 |
4 エドワードと富士山 | 5 第16代知事堀田義次郎 | 6 満州国皇帝の奉送迎 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 外国貴賓のおもてなし
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(1)「建仁寺出張からの復命書」 明治12年(1879)2月27日
明治維新後、初めて滋賀県が外国貴賓への対応を迫られたのは、明治12年2月のことでした。当時来日していたイギリス庶民院議員のエドワード・ジェームス・リード(Edward James Reed)が、京阪遊覧後に東海道を通って帰京するので、その応接を内務省より求められたのです。県では「接待等殊(こと)ニ不馴(ふなれ)」のため、庶務課駅逓部の内堀助長をリードが宿泊していた建仁寺に派遣します。本文書はその復命書で、事前に必要な応接準備を報告しています。【明か20-1(1)】
(2)「外国貴紳接待掛の任命」 明治12年(1879)4月15日
リード議員を無事に見送った翌月の4月2日、今度は太政官よりアメリカ前大統領のユリシーズ・S・グラント(Ulysses S.Grant)の応接を命じられます。早速県は、リード議員に随行した曽根直行・内堀助長を含む6名を、外国貴紳接待掛に任命しました。内堀は当時26歳の青年で、庶務課簿書専務を経て、明治7年4月より同課駅逓専務(後に同部と改称)を務めていました。内堀はグラントをはじめ、貴賓応接の主要な事務を担うことになります。【明い107(129)】
(3)「米国前大統領遊覧に付き伺い」 明治12年(1879)4月23日
外国貴紳接待掛の曽根直行・内堀助長より県令に宛てた伺い書。グラント前大統領の行程が未定のなか、リード議員の前例を参考にして、京都より東海道を陸路で帰京すると想定しています。その際の遊覧場所として、三井寺(園城寺)、唐崎、日吉神社、石山寺の4か所を挙げ、各地に休憩所を設けるとともに、由緒や所蔵する宝物等を調査する計画を伺い出ました。県令の籠手田安定は、この計画を認可した上で、さらに道路の修繕も命じています。【明か20-2(1)】
(4)「石山・三井寺・唐崎略記」 明治12年(1879)5月頃
明治12年4月28日、外国貴紳接待掛の要請を受けた石山寺と園城寺は、各寺院の概略を記した「略記」を県に提出しています。本文書はそれに唐崎を加えて取りまとめたもので、来るべきグラント前大統領の来県に備えた「滋賀県ガイドブック」といえます。しかし当年は、コレラが流行したため、結局グラントが滋賀県に立ち寄ることはありませんでした。その一方、その後も外国貴賓は本県を相次いで訪れ、接待掛は休む暇なく対応に追われていくのです。【明か21(22)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
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(5)「滋賀県御遊覧之次第」 明治24年(1891)5月8日
明治時代に滋賀県を訪れた外国貴賓のなかで、最も著名な人物がロシア皇太子ニコライ(ニコライ2世)です。明治24年3月9日には、宮内省より滋賀県に来県の可能性が伝えられています。県はその接伴掛に、明治14年より外国貴紳接待掛を務める矢島新之助ら6名を任命しました。本文書は矢島が作成した遊覧行程で、定番の三井寺と唐崎が組み込まれています。当初は石山寺も検討されていましたが、京都での滞在短縮により削られることになりました。【明か23(31)】
(6)「県内物産の出品目録」 明治24年(1891)5月5日
明治24年3月27日、県内務部はニコライをもてなすため、県内物産の出品をうながすよう郡役所に命じます。滋賀郡からは、計9品が県に提出され、5月11日の当日は、県庁舎の収税長室で陳列されることになりました。そのうち鯉が描かれた花瓶(「水ニ鯉図花生」8円50銭)は、実際にニコライが購入したようです。しかしその後、食堂で昼食を終えたニコライは、庁舎を出た直後に津田三蔵巡査に斬り付けられ、負傷してしまいます(大津事件)。【明か24-2(6)】
(7)「史籍編纂に付筆生雇入之件」 明治25年(1892)2月1日
ニコライ皇太子の傷害事件は、本来もてなす側の県官員による犯行だったこともあり、県庁を揺るがす大事件となりました。翌25年2月、県ではその顛末をまとめるために、「露国皇太子殿下御遭難記事」の編纂が始まります。『滋賀県沿革史』を著した北川舜治らを雇い入れ、宮内庁や大津裁判所、県監獄署などから関係書類を収集しました。同年末には稿本が完成しますが、あくまで「当庁ノ記録」として利用され、広く公開されることはありませんでした。【明え217(13)】
(8)「ニコライとゲオルギオスの肖像写真」 明治24年(1891)
ロシア皇太子ニコライと、ともに来日したギリシャ王子ゲオルギオス(ジョージ)の写真。昭和30年代に滋賀県を訪れたゲオルギオス妃マリーから宮内庁を通じて贈られました。同庁式部官からの送り状によれば、マリー妃は大津市で事件に関わる遺物を閲覧した際、「非常な感動」を示したようです。この写真は、大津事件が取り上げられる際、必ず紹介される著名なものですが、その由来は時を超えた本県のおもてなしと深く関わっているのです。【資564】
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