滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

(1)「県令所規則」 慶応4年(1868)8月

 慶応4年閏4月に発足した大津県(滋賀県の前身)時代に、県の文書事務を担ったのは「書記」という官職です。その職掌は「事ヲ受テ上抄(筆写)シ、文案ヲ勘案(検討)シ、部内布告掲示等ノ事ヲ掌ル」とされ、公文書の作成と周知が主な役割でした。その他にも、地図や戸籍を管理する「掌簿」という官職も設けられましたが、12月には廃止されています。文書管理を専門に扱う官職はまだなく、この時期の文書は「県沿革書類」として残されています。【明お41-2(2)】

 

(2) 「大津県書記・湯浅常太郎」 明治期

 大津県で初代書記を務めたのは、広島藩出身の湯浅常太郎です。当時の知事は同じく広島藩出身の辻将曹で、大津県の上級官員は同藩ゆかりの者が多数を占めていました。湯浅は、慶応4年5月より、しばらく書記を務めた後、判事試補を経て、同年12月より再度書記を務めました。しかし翌2年8月、上級官員の大幅な人員削減にともない、多くの広島藩出身者とともに解職されてしまいます。退職金は「褒美」40円が支払われたようです。(『滋賀県史』55【資115】)

 

 

(3)「伊藤紀の出仕」 明治期

 湯浅常太郎の解職後は、新たな書記が任命されることはなく、しばらく文書事務担当の官員は不在の状態が続きました。明治4年12月になり、ようやく円満院宮家士であった伊藤紀が「筆記」として出仕しています。詳しい職掌は不明ですが、その後の伊藤は、退官まで一貫して県の文書事務を担当しており、文書関連の官職であったものと思われます。【明え156-4(1)】

 

(4)「滋賀県職制」 明治5年(1872)1月

 明治5年1月、大津県から改称した滋賀県では、県治条例に基づき、新たな職制が定められます。県庁の事務は、庶務・聴訟・租税・出納・監察の5課に分けられ、文書を取り扱う部署として、庶務課に「簿書専務」が設けられました。発足当初の官員は、大津県筆記を務めた伊藤紀を含め6名が任じられています。大津県書記の職掌に加え、「総テ庁中ノ簿書ヲ編正スル」ことが明記されており、本格的に文書管理専門の官職が登場することになります。【明い246-3(1)】

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