1-1「石山寺旧跡案内パンフレット」 昭和10年(1935)3月
石山寺を中心とした俯瞰図で、明治43年(1910)に開業した京阪電気鉄道の路線図などが描かれています。良弁僧正によって建立された石山寺の地は、古くから石切り場として知られ、東大寺建立に際しても木材の集積地として、大きな役割を果たしました。紫式部と源氏物語の言い伝えや近江八景など、文学の舞台としても知られています。【昭せ52(28)】
1-2 「犬上郡豊郷尋常高等小学校校舎図」 昭和11年(1936)3月
豊郷小学校の校舎は、建築家・実業家として著名なウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって昭和12年(1937)に建設されました。施工は竹中工務店、建設や設備の費用は、郷土出身の丸紅商店専務古川鉄治郎が全額寄付しています。「白亜の教育殿堂」、「東洋一の小学校」と評され、国の登録有形文化財に登録されています。【昭し284(1)】
1-3「彦根城内古写真」 昭和12年(1937)
彦根町が市制に移行する際に作成された資料で、昭和初期の彦根城内の様子が撮影されています。天守閣や楽々園、玄宮園、佐和口多聞櫓などの他に、戦時中、軍需品を作るための金属回収によって撤収された井伊直弼像が写されています。【昭こ39(6)】
1-4「大津祭り古写真」 昭和3年(1928)11月
曳山で有名な大津祭りは四宮神社(現天孫神社)の祭礼として、慶長年間に始まったとされています。京都の祇園祭に影響を受けているといわれ、中国の故事や能・狂言を題材にしたカラクリと華麗な懸装品などは、現在でも大津の秋の風物詩となっています。【資570】
1-5 「緑ヶ丘運動場仮停留場新設届」 昭和5年(1930)7月7日
緑ヶ丘運動場は、かつて全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)の京津予選が開かれていた球場です。その開催のため、仮停留場が京阪電鉄によって追分駅と四宮駅の間に建設され、大会期間中の10日間のみ、上り線乗客が降車することができました。【大と20(14-6)】
1-6 「京阪電鉄浜大津駅附近実測平面図」 昭和9年(1934)2月
この地域一帯は、かつて大津城や大津代官所などが存在した大津の行政中心地であると同時に、諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ商業拠点でもありました。京阪電鉄はここを中継地として京都-石山間と京都-坂本間の東西二線を直通運転したため、このあたり一帯は現在に続くさらなる発展を遂げていきます。【昭と6-1(1)】
1-7「米原駅構内略図」 昭和10年(1935)
米原駅は明治22年(1889)7月に東海道線が開通し、以来、県北東部の玄関口として、また北陸線の分岐点としても栄えます。2つの転車台を備えた大掛かりな駅舎を持ち、近鉄本線との乗り換え地でもありました。【昭か84(1)】
1-8「大津駅構内図」 昭和20年(1945)6月
戦時中に作成された大津駅付近の図です。第二次世界大戦の戦況が激しくなる中、防空法の規定により大津市内にも防空空地(疎開空地)が指定されました。堅牢な建築物や重要な施設の周辺が選ばれ、大津駅付近も地図上の赤い枠線が指定され、撤去の対象となったことを示しています。【昭あ152-1(314)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県民生活の諸風景
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展示期間 令和4年5月30日(月)~令和4年10月20日(木)
今年2022年は、明治5年(1872年)9月29日の滋賀県誕生より150年の節目であり、今回は、昭和30年代までの県民生活に関わる資料の紹介です。県民にとってなじみの深い豊郷尋常高等小学校や彦根城などの名所に関する図面・写真などや、今年、新橋・横浜間の運行開始から数えて開業150年を迎えた鉄道関連の史料、そして進駐米軍部隊の先遣隊が赴任して以降12年間にわたるGHQ間接施政期の史料などをもとに、滋賀県の人々が激動の昭和前半期をどのように歩んでいったのか、その“諸風景”をたどっていきます。
1 生活の風景と鉄道 | 2 GHQと滋賀県 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県民生活の諸風景
- 参照数: 842
2-1「滋賀県庁舎写真」 昭和16年(1941)3月
現在、運用されている県庁は、昭和14年(1939)4月26日から3日間かけて仮庁舎からの移転が行われ、5月16日には来賓700名を招待して竣工式が庁舎屋上において挙行されました。その後、70年あまりの時を経て平成26年(2014)12月19日には、国の登録有形文化財に登録され今に至ります。【昭の6(1)】
2-2 「接収家屋改造工事仕様書」 昭和21年(1946)
進駐軍の少佐とその家族が住むために請負業者から提出されたもので、京都市山科接収住宅の家屋を改造するための仕様書です。家は木造3階建てで改造項目は22ヶ条におよび、床のフローリング張りやブラインドの取付け(No.1)、ガラス戸の新設や出入り口の洋風化(No.5)、ガレージの新設(No.22)などの項目が定められています。【昭06-6(1)】
2-3 「連合軍使用施設一覧」 昭和22年(1947)12月
総務部渉外課長事務引継書の中に記載されている昭和22年12月当時に使用中だった施設の一覧表です。渉外課は前年の8月に、県と進駐軍との交渉・連絡を目的として、特別建設課とともに新設されました。この史料からは、県庁2階・3階の8室と1階の3室が、それぞれ滋賀軍政部と35連隊MP(ミリタリーポリス)本部に割当てられていたことがわかります。【昭06-135(2)】
2-4「琵琶湖ホテル役務提供契約書写」 昭和23年(1948)2月3日
この契約書は、服部岩吉知事と琵琶湖ホテルとの間で、進駐軍が生活するためのホテル業務提供を契約したものです。大津市錦織町柳ヶ崎にあった琵琶湖ホテルは昭和9年に完成し、桃山様式を採用した和風建築でした。内部は洋風が取り入れられ、「湖国第一の近代ホテル」として知られており、接収されたホテルは、日本政府が賃借したうえで進駐軍に提供するかたちをとっています。【昭06-15(20)】
2-5 「琵琶湖畔国際観光ホテル建物図」 昭和7年(1932)4月
解説文は2-4と同じです。【昭て12(6-2)】
2-6 「連合国軍関係使用人管理厚生規程」 昭和20年代
特別調達庁労務管財部が発行したものです。当館には総務部渉外課近江舞子出張所で使用されたものが残されています。各編には、労働基準法や労働組合、保険や福祉について記されており、日本人労務者の恵まれた労働条件がうかがえる一方、米軍本位の一面もあったため、後には新しい基本労務契約の改定へとつながりました。【昭06-127】
2-7「離職者のしおり 滋賀県総務部外務課」 昭和32年(1957)12月15日
駐留軍から離職した日本人労務者のために、総務部外務課が作成したしおりです。相談の窓口、自営業を営むことや融資を受けるための方法、離職後の社会保険などについて説明しています。キャンプ大津の全面閉鎖を翌年1月に控える中、当時離職した労務者は約1,250名ほどおり、そのうち再就職を希望する人は約600人でした。【昭06-150(2)】
2-8 「滋賀県駐留軍要員福利厚生事業<旧所・名蹟めぐり>」 昭和33年(1958)5月
渉外労務管理機関が主催して、滋賀県に雇用されている日本人とアメリカ人の駐留軍要員のために企画された日帰り旅行です。102名の対象者2班が5月26日と27日の2日間に分かれて、それぞれ延暦寺から鹿苑寺金閣、苔寺、東大寺へとまわりました。【昭06-82】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県民生活の諸風景
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