1-1「外国人接待粗暴禁止の件」 明治2年(1869)5月
以前から度々出されていた外国人への乱暴を禁ずる命令を、再度通知した史料です。例示として最近イギリス人やフランス人がいわれなく通行の妨害を受けたことを挙げ、事件を起こした当人だけでなくその主人をも処罰する、としています。このころはまだ、幕末の攘夷の気風が抜けきらないままの世相であったようです。【明あ4-1(117)】
1-2 「工部省御雇外国人同行の節、警護の件」 明治4年(1871)4月
太政官からの達で、工部省の官員が出張する際に同行する御雇外国人が府藩県管内を通行する際は相当の護送を差し出し、また依頼などがあった場合は不都合なく便宜を図るように指示したものです。この達は2年後の明治6年に取り下げられるまで続きました。【明あ7(87)】
1-3 「来日外国人接待留意の布達」 明治5年(1872)
明治5年に開催された第1回京都博覧会に来場する外国人の接客に際し、県が、民衆への注意を促した史料です。琵琶湖の遊覧に足を伸ばす外国人を想定して、それぞれが商売の工夫を行うよう促し、偽物などを売ることを禁じています。また料理屋や宿屋、道路などを清浄に保つことも求めています。【明い30-1(42)】
1-4「京都博覧会来訪外国人接待心得の件」 明治5年(1872)2月
県が京都博覧会に来場する外国人への対応に際し、町村役人に対し心得を諭した史料です。県内の村々で、物慣れないために「続々として見物し、指さし笑ひ罵」るようなことがあっては外国との交際上において国の体面に関わると指摘し、管内に注意を促しています。【明い225(3)】
1-5 「警察官屯所旗、肩印絵図」 明治5年(1872)2月
東京における邏卒(らそつ)制度導入にともない、明治5年、滋賀県でも外国人に対する乱暴狼藉の違法行為を「ポリス」に取り締まりをさせることになりました。用向きのあるものは、所在を示す旗(右図)と肩に取り付けられた印章を目印に相談するよう定めています。【明い223(4)】
1-6 「電信寮御雇外国人一行巡回通知」 明治7年(1874)1月28日
御雇外国人モリスを含む工部省電信寮の一行が巡回のため滋賀県を訪れるに際し、工部省がその対応を指示した史料です。この翌年1月20日には、大津湊町(現大津市)に電信局が開局されるなど、大津の地は急速に情報伝達の仕組みが整っていきました。上部の筆跡は、初代県令松田道之の直筆です。【明と96(62)】
1-7「外国人と結婚の儀に付、伺」 明治14年(1881)8月29日
明治初期における外国人との結婚に関する史料です。滋賀郡馬場村(現大津市)の女性と広島丸乗組員の英国人は、当時の規則により管轄府県へ双方合意のもと結婚の願いを届け出ます。県はそれを内務省に上申し、この約2か月後に内務卿山田顕義は結婚を認可しています。【明う33(133)】
1-8 「私雇外国人居留地外旅行免状下付願」 明治19年(1886)5月29日
近江麻糸紡織会社で機械師として約9ゕ月間働くことになったフランス人が、神戸の外国人居留地の外である本社所在地の滋賀郡松本村(現大津市)で暮らす必要が生じたため、旅行免状の交付を申請した史料です。月給は、銀貨で100円でした。【明う110(23)】
1-9「外国人雇入洋学所取設に付、伺書」 明治5年(1872)4月14日
滋賀県令松田道之が大蔵省に宛てた上申です。「異邦の文明人」を用いれば「学生は勿論、県下一般人民開化、進歩の基」になると主張し、教師として外国人を雇い入れる洋学所の開設を願い出ています。松田のこの構想が欧学校開設へとつながっていきます。【明う156(30)】
1-10 「滋賀県欧学校開校の件」 明治5年(1872)9月
西洋の新知識に根差した実用学科の教育を目的とする欧学校は、明治5年8月に生徒募集を行い、10月6日、開校式を迎えます。男女の区別なく出願を認め、松田県令夫人も入学しました。一般教養や語学、商業を教える教師にはレーウェンスタイン夫妻を招聘しました。【明い224(47)】
1-11 「滋賀県欧学校規則」 明治6年(1873)6月25日
開校の翌年に規則が定められ、入学が毎年6月と12月、入学年齢は8歳から25歳まで、在学年限は3ゕ年とされました。大津坂本町の旧淀藩蔵の一部を校舎に、旧紀州藩蔵を教師館に充て、外国人教師たちが指導に当たりました。【明い228(13)】
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2-1「鉄道調査御雇外国人出張に付、太政官件達」 明治3年(1870)6月
太政官が鉄道敷設調査のため、御雇外国人の出張を大津県へ通達した史料です。こうした調査の後、大阪―神戸間、京阪神全線の開業など次々と鉄道が延長していきました。そして、はじめて日本人のみの手で竣工した逢坂山トンネルの工事を経て、京都―大津間が明治13年に完成します。【明う151(16)】
2-2 「土木寮オランダ人技師コルネルス・ファン・ドールン報告書写し」 明治6年(1873)6月27日
御雇外国人であったファン・ドールンが大津―京都間の道路調査で作成した報告書の写しです。ドールンはオランダ出身で1872年に来日し、日本で近代土木事業の道を拓いた人物として知られています。報告書には、雨水からの保護のため小石と土砂の混合を避けることなど事細かな指摘がなされています。【明な274-1(27)】
2-3 「鉄道寮御雇外国人出張者名簿」 明治7年(1874)4月20日
鉄道寮の建築師である御雇外国人たちが県内に出張したおりの人名リストです。合わせて9名が、京都―大津間、大津―塩津間、塩津―敦賀間のそれぞれに分かれて出張しました。しかし、測量目印の杭を建設反対の人々に抜き取られるなどの妨害にも悩まされたそうです。【明と1(108)】
2-4「土木寮オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ自筆絵図」 明治14年(1881)頃
蒲生郡岩井村法橋寺川沿いの新溜め池工事に関わり、デ・レーケが県の質問に回答した際の自筆の資料です。デ・レーケは図内で県内最良の土砂の使用を指示しています。オランダ出身のデ・レーケは31歳で来日し、30年間にわたり河川の改修や築港などに数々の業績を上げ「砂防の父」と称されました。【明ぬ113-4(3)】
2-5 「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ直筆書状」 明治38年(1905)7月14日
英語教師として来日したヴォーリズは、伝道師・篤志家・建築家・実業家・作詞家として多才な顔を持つ人物として知られています。妻である満喜子夫人と共に二人三脚で、近江八幡を拠点に活躍しました。史料はヴォーリズ25歳の時の文書で、複数校の兼業を解くよう願い出たものです。【明お53-1(50)】
2-6 「清友園幼稚園断面図」 昭和6年(1931)12月
ヴォーリズが設計を行った近江八幡市で建てられた近代幼稚園の断面図で、国の登録有形文化財に指定されています。運営者は妻の満喜子夫人で、彼女は専門である幼児教育に力を尽くし、大正9年(1920)、自宅でプレイグラウンドと呼ばれる教育活動を開始、その活動の延長として保育園を開園しました。【昭し382(16)】
2-7「犬上郡豊郷尋常高等小学校校舎断面図」 昭和11年(1936)3月
豊郷小学校の校舎は、ヴォーリズの設計によって昭和12年(1937)に建設されました。施工は竹中工務店、建設や設備の費用は、郷土出身の丸紅商店専務古川鉄治郎が全額寄付しています。「白亜の教育殿堂」、「東洋一の小学校」と評され、国の登録有形文化財に登録されています。【昭し284(1)】
2-8 「ヴォーリズ満喜子自筆履歴書」 昭和13年(1938)7月19日
ヴォーリズの妻である満喜子夫人は、播磨小野藩最後の藩主一柳末徳の娘として生まれ留学中の明治43年(1910)に洗礼を受けたと言われています。大正8年(1919)、ヴォーリズと結婚し、彼主宰の伝道団体である近江ミッションに加わりました。ヴォーリズを支えると共に自らも教育者として活躍しました。【昭し385-2(18)】
2-9「近江兄弟社沿革」 昭和17年(1942)
明治44年(1911)、近江八幡に移住していたヴォーリズは、キリスト教の理念に基づく理想郷の建設に向け、資金を奉仕活動に還元するための伝道団体近江ミッションを設立しました。このミッションは、昭和9年(1934)ヴォーリズ54歳の時に近江兄弟社と改称されます。【昭か25-2(4)】
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