展示期間 令和2年4月1日(水)~令和2年6月25日(木)
令和2年(2020年)4月1日、本県では滋賀県公文書等の管理に関する条例を施行し、意思決定に至るまでの過程を含めた公文書の作成義務や、歴史資料として重要な公文書(歴史公文書)を永久に保存する仕組みを整えました。また、同日より開館する県立公文書館において、「県民共有の知的資源」である歴史公文書等を閲覧していただけます。
県立公文書館の開館後、初となる本展示では、本県の公文書管理の歴史を振り返ります。本県では、明治5年(1872年)1月に文書事務を扱う官職「簿書専務」を設置し、文書管理を行ってきましたが、作成文書の肥大化にともない、明治末頃には書類を探す上で「苦難ノ点」が指摘されるようになっていました。そこで県は、文書事務の全国調査を行い、文書庫の建設や文書分類表の導入など、抜本的な改革に乗り出しました。一連の改革は郡・町村にもおよび、大正13年(1924年)に政府へ提出した報告書には、自ら「見ルベキモノアリ」と評価するほど、大きな成果を収めたようです。
今回の展示では、このような大正期の文書事務改革をはじめ、県の公文書がどのような経緯を経て、現在まで受け継がれてきたのかについて、本県の歴史公文書をもとにご紹介したいと思います。
1 簿書専務の設置 | 2 布達のライフサイクル | 3 簿書専務のお仕事 |
4 簿書保存規程の制定 | 5 類別整理のはじまり | 6 郡町村の文書管理 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 公文書管理の源流を探る
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(1)「県令所規則」 慶応4年(1868)8月
慶応4年閏4月に発足した大津県(滋賀県の前身)時代に、県の文書事務を担ったのは「書記」という官職です。その職掌は「事ヲ受テ上抄(筆写)シ、文案ヲ勘案(検討)シ、部内布告掲示等ノ事ヲ掌ル」とされ、公文書の作成と周知が主な役割でした。その他にも、地図や戸籍を管理する「掌簿」という官職も設けられましたが、12月には廃止されています。文書管理を専門に扱う官職はまだなく、この時期の文書は「県沿革書類」として残されています。【明お41-2(2)】
(2) 「大津県書記・湯浅常太郎」 明治期
大津県で初代書記を務めたのは、広島藩出身の湯浅常太郎です。当時の知事は同じく広島藩出身の辻将曹で、大津県の上級官員は同藩ゆかりの者が多数を占めていました。湯浅は、慶応4年5月より、しばらく書記を務めた後、判事試補を経て、同年12月より再度書記を務めました。しかし翌2年8月、上級官員の大幅な人員削減にともない、多くの広島藩出身者とともに解職されてしまいます。退職金は「褒美」40円が支払われたようです。(『滋賀県史』55【資115】)
(3)「伊藤紀の出仕」 明治期
湯浅常太郎の解職後は、新たな書記が任命されることはなく、しばらく文書事務担当の官員は不在の状態が続きました。明治4年12月になり、ようやく円満院宮家士であった伊藤紀が「筆記」として出仕しています。詳しい職掌は不明ですが、その後の伊藤は、退官まで一貫して県の文書事務を担当しており、文書関連の官職であったものと思われます。【明え156-4(1)】
(4)「滋賀県職制」 明治5年(1872)1月
明治5年1月、大津県から改称した滋賀県では、県治条例に基づき、新たな職制が定められます。県庁の事務は、庶務・聴訟・租税・出納・監察の5課に分けられ、文書を取り扱う部署として、庶務課に「簿書専務」が設けられました。発足当初の官員は、大津県筆記を務めた伊藤紀を含め6名が任じられています。大津県書記の職掌に加え、「総テ庁中ノ簿書ヲ編正スル」ことが明記されており、本格的に文書管理専門の官職が登場することになります。【明い246-3(1)】
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(5)「稟議の様式」 明治6年(1873)8月3日
簿書専務の事務は、狭義の文書管理にとどまらず、「布達」(明治8年以前は布令)と呼ばれる法令の告示に深く関わりました。布達の文案は、戸籍専務や社寺専務など、各事務の担当部署が作成し、その発令には県令(後の県知事)の決裁を得ることになっていました(稟議制)。本資料はその様式で、「主任」欄は文書の作成者、「稟議」欄は同じ部署内の官員、「閲」欄は同部署の責任者の印がそれぞれ必要であると記されています。【明い46-3(18)】
(6)「伊藤紀の過失」 明治期
布達書が作成される際は、簿書専務がその文面に目を通し、誤りがないか確認(「勘署」)する役割を担いました。さらに同専務は、布達草案(後の原議)の清書もこなし、少なくとも明治11年以後は、すべての布達草案を清書しています。本資料は、伊藤紀の履歴書ですが、明治8年頃、布達書の誤りに気付かないまま、頒布するという過失を犯したことが記されています。ただしこの時は、発覚前に自ら申し出たことで、お咎めなしとなったようです。【明え149(1)】
(7)「布達番号簿」 明治5年(1872)
簿書専務の確認後、布達は「布達書」(布令書)として印刷に付され、区・町村ごとに戸数に応じた部数が頒布されるとともに、各地の掲示場(明治8年廃止)で告示されました。布達書は、「布達番号録(簿)」で管理され、簿書専務の手で発令日や文書番号、文書件名、印刷部数などが書き込まれました。印刷された布達書は、少なくとも明治8年以後は、簿冊に綴じて管理されました。【明い34-1(1)】
(8) 「記録書目進達書」 明治9年(1876)5月19日
現在、県が所蔵している「布達編冊」は、明治7年以前は欠番が多々あり、全ての布達書(布令書)が綴じられていません。明治8年4月の太政官達を受けて、新たに編綴されたものと思われます。同達では、記録文書が失われれば、「後日ノ照会」ができず、事務上の困難が生じるとして、保存方法を設けて大切に保管するよう府県に求めていました。その際、簿冊目録の提出も命じられたことから、県は毎年各課の目録を内務省に提出しています。【明う58(17)】
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