2-1「鉄道調査御雇外国人出張に付、太政官件達」 明治3年(1870)6月
太政官が鉄道敷設調査のため、御雇外国人の出張を大津県へ通達した史料です。こうした調査の後、大阪―神戸間、京阪神全線の開業など次々と鉄道が延長していきました。そして、はじめて日本人のみの手で竣工した逢坂山トンネルの工事を経て、京都―大津間が明治13年に完成します。【明う151(16)】
2-2 「土木寮オランダ人技師コルネルス・ファン・ドールン報告書写し」 明治6年(1873)6月27日
御雇外国人であったファン・ドールンが大津―京都間の道路調査で作成した報告書の写しです。ドールンはオランダ出身で1872年に来日し、日本で近代土木事業の道を拓いた人物として知られています。報告書には、雨水からの保護のため小石と土砂の混合を避けることなど事細かな指摘がなされています。【明な274-1(27)】
2-3 「鉄道寮御雇外国人出張者名簿」 明治7年(1874)4月20日
鉄道寮の建築師である御雇外国人たちが県内に出張したおりの人名リストです。合わせて9名が、京都―大津間、大津―塩津間、塩津―敦賀間のそれぞれに分かれて出張しました。しかし、測量目印の杭を建設反対の人々に抜き取られるなどの妨害にも悩まされたそうです。【明と1(108)】
2-4「土木寮オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ自筆絵図」 明治14年(1881)頃
蒲生郡岩井村法橋寺川沿いの新溜め池工事に関わり、デ・レーケが県の質問に回答した際の自筆の資料です。デ・レーケは図内で県内最良の土砂の使用を指示しています。オランダ出身のデ・レーケは31歳で来日し、30年間にわたり河川の改修や築港などに数々の業績を上げ「砂防の父」と称されました。【明ぬ113-4(3)】
2-5 「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ直筆書状」 明治38年(1905)7月14日
英語教師として来日したヴォーリズは、伝道師・篤志家・建築家・実業家・作詞家として多才な顔を持つ人物として知られています。妻である満喜子夫人と共に二人三脚で、近江八幡を拠点に活躍しました。史料はヴォーリズ25歳の時の文書で、複数校の兼業を解くよう願い出たものです。【明お53-1(50)】
2-6 「清友園幼稚園断面図」 昭和6年(1931)12月
ヴォーリズが設計を行った近江八幡市で建てられた近代幼稚園の断面図で、国の登録有形文化財に指定されています。運営者は妻の満喜子夫人で、彼女は専門である幼児教育に力を尽くし、大正9年(1920)、自宅でプレイグラウンドと呼ばれる教育活動を開始、その活動の延長として保育園を開園しました。【昭し382(16)】
2-7「犬上郡豊郷尋常高等小学校校舎断面図」 昭和11年(1936)3月
豊郷小学校の校舎は、ヴォーリズの設計によって昭和12年(1937)に建設されました。施工は竹中工務店、建設や設備の費用は、郷土出身の丸紅商店専務古川鉄治郎が全額寄付しています。「白亜の教育殿堂」、「東洋一の小学校」と評され、国の登録有形文化財に登録されています。【昭し284(1)】
2-8 「ヴォーリズ満喜子自筆履歴書」 昭和13年(1938)7月19日
ヴォーリズの妻である満喜子夫人は、播磨小野藩最後の藩主一柳末徳の娘として生まれ留学中の明治43年(1910)に洗礼を受けたと言われています。大正8年(1919)、ヴォーリズと結婚し、彼主宰の伝道団体である近江ミッションに加わりました。ヴォーリズを支えると共に自らも教育者として活躍しました。【昭し385-2(18)】
2-9「近江兄弟社沿革」 昭和17年(1942)
明治44年(1911)、近江八幡に移住していたヴォーリズは、キリスト教の理念に基づく理想郷の建設に向け、資金を奉仕活動に還元するための伝道団体近江ミッションを設立しました。このミッションは、昭和9年(1934)ヴォーリズ54歳の時に近江兄弟社と改称されます。【昭か25-2(4)】