滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 

2-1『膳所県史』 明治期

 膳所県とは、近江国南部(現在の大津市域)を中心に領地をもつ膳所藩が、明治4年(1871)7月の廃藩置県にともない、改称したものです。同藩は、もともと京都警備等を職務としていましたが、幕末には財政状況が悪化し、家臣を農業に従事させる帰農政策をすすめました。さらに、明治3年4月には、藩の象徴である膳所城が「修理の為め連年莫大な国用を費」すため廃城となり、翌年7月に廃藩置県を迎えます。同年11月には廃県となり、大津県に合併されました。【資423】

 

2-2『水口県史』 明治期

 近江国南東部(現在の甲賀市域)等を治めた水口藩では、幕末以来「勤王」派の儒者中村栗園が藩の実権を握り、「草莽」と呼ばれる在野の志士たちも、盛んに活動していました。維新後も、明治2年8月に知事の「勤王ノ志」を批判した元入牢者が、藩兵隊員5名によって斬殺される事件が起こっています。藩命によらない行動でしたが、藩は「私闘」ではなく「勤王ノ志気」を鼓舞するためだったと政府に弁明し、結局禁錮3年で済まされました。【資424】

 

2-3『西大路県史』  明治期

 近江国南東部(現在の日野町域など)を治める西大路藩は、もともと仁正寺藩と呼ばれていましたが、仁正寺の読みが西大路に似ていることから、文久2年(1862)4月に改称しました。維新後の諸改革は、藩内に大きな動揺を与えたと見られ、藩庁の批判や国の政策を論じる女性も出てきたようです。そのため、明治3年9月、藩は(女性差別的な考えに基づき)「婦人ノ失言」は家政の不取締が原因だとして、家の主人が厳しく取り締まるよう布令を出しています。【資425】

 

2-4『山上県史』  明治期

 山上藩は、近江国東部(現在の東近江市域)を中心に領地をもちながら、参勤交代が行われず、江戸時代は藩主が江戸に常駐していました。しかし、明治2年(1869)6月に知藩事に任じられた旧藩主の子稲垣太祥は、藩領に居住することになります。そのため翌3年1月、知事一家の新住居建設工事が始まりますが、村々には大きな負担だったようで、同年5月に藩領26か村の庄屋から、新たな建設費負担の延期を求める嘆願書が提出されています。【資426】

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