展示期間 令和6年1月22日(月)~令和6年5月23日(木)
令和5年度から当館では、滋賀県が誕生した明治5年(1872年)からの150年間を対象とする県史編さん事業を進めており、その資料収集の一環として、本県に関わる新聞記事を集めています。
明治維新以降の日本では、政府が推し進める近代化政策の中で様々なことが目まぐるしく変わっていきました。本県もその例外ではなく、交通機関の発達は、琵琶湖の湖上交通として汽船を導入するに至り、またハワイ移民のように滋賀県から海外に向かっていく人々も生み出していきます。そして近代国家を目指す中で選挙の実施や学校教育などに代表される政治・社会制度の大きな変化、あるいは天智天皇顕彰のような国家の歴史への関心の高まりなどが生じてきます。
本展示では、このような政治・社会の変化を映し出す新聞記事等を手がかりに、明治の湖国の印象的な6つのトピックスをご紹介してみたいと思います。
1 滋賀県と新聞 | 2 太湖汽船とその周辺 | 3 ハワイ官約移民のはじまり |
4 第1回総選挙と滋賀県 | 5 天智天皇顕彰運動 | 6 尋常中学校教員の総辞職 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 新聞記事からみた明治の湖国
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明治5年(1872年)~6年(1873年)にかけて、滋賀県にも文明開化を担う存在として期待された新聞社が生まれます。それが滋賀新聞会社と琵琶湖新聞会社でした。しかし、この2紙を含め明治前半期に生まれた滋賀県下の新聞は短命に終わってしまいます。その中で新たに滋賀県に進出するのが京都の新聞社である京都新報社で、明治15年(1882年)に京都滋賀新報社と社名を変更します。同社は、現在の京都新聞社につながる新聞社であり、このころより滋賀県と深いつながりがあったといえます。
今回の展示では、そうした滋賀県とかかわりの深い「京都滋賀新報」や後継紙の「中外電報」、そして姉妹紙として創刊される「日出新聞」の記事を取り上げていきます。
1-1「新聞紙縦看所、集書館取設に付会社等の取結方」 明治5年(1872年)10月3日
初代滋賀県令の松田道之は開明的な政策を打ち出した人物で知られていますが、そうした政策の一つとして「新聞紙縦看所」と「集書館」の設置を推奨していました。前者は県民の知見を開くことを目的とした新聞を閲覧できる施設で、後者は図書館のことです。滋賀県で初めて発行された「滋賀新聞」(滋賀新聞会社)は、この月に創刊されており、その第1号には新聞紙縦看所を設けたので「来観これあるべし」と掲載しています。【明い33(52)】
1-2「琵琶湖新聞発行の件」 明治6年(1873年)3月8日
「琵琶湖新聞」は、滋賀県下で発行された初期の新聞の一つです。甲賀郡石部村藤谷九郎次たちが新聞刊行を申し出て、それが県に認められました。この布令では「知覚之歩」を進める者は購読し、知識を開いて事業を起こすべしとあり、新聞が文明開化を担うものだという認識がうかがえます。同紙は木版刷で月3回の発行でしたが、明治12年(1879年)に廃業しています。【明い232(2)】
1-3「旧大津日報旧淡海新聞合併、滋賀日報と改題の儀出願候処聴届相成の件」 明治13年(1880年)5月1日
滋賀県初の新聞である「滋賀新聞」は、明治11年(1878年)に「淡海新聞」と改題します。その際、それまでの木版刷の週刊紙から活版刷の日刊紙へと変わり、滋賀県初の日刊新聞紙となります。そして明治13年に同紙は、この布達が示すように「大津日報」(大津日報社)と合併して「滋賀日報」となりました。しかし同紙は翌年には廃刊となり、滋賀新聞会社が再興されて「淡海日報」が創刊されます。【明い117(1)】
1-4「本県報告は滋賀新聞会社及京都滋賀新報社に掲載」 明治15年(1882年)10月21日
明治14年(1881年)に滋賀新聞会社が刊行する「淡海日報」は「江越日報」と改題します。しかし同紙は明治15年4月に一度休刊しています(同年12月廃刊)。この休刊で県会の報道に不便を感じた滋賀県会議員有志からの依頼に応じて、7月に「京都新報」が「京都滋賀新報」と改題して進出してきます。この布達は、そうした事情もあいまって、「京都滋賀新報」にも県報告を掲載することを決めたものといえます。
なお「京都滋賀新報」は、明治17年(1884年)10月に「中外電報」と改題します。また明治18年(1885年)には、発行停止処分を命じられた時の身がわり紙として「日出新聞」も発行されます。「中外電報」は明治25年(1892年)に廃刊となる一方、系列の「日出新聞」が本紙となり、現在の京都新聞の前身となります。【明い131(68)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 新聞記事からみた明治の湖国
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明治10年代は、滋賀県における交通機関整備の画期でした。明治13年(1880年)、京都・大津間の鉄道が開通し、また敦賀・長浜間の鉄道敷設も進められ、同17年に開通しました。これらの中間である大津・長浜間については、鉄道を敷設するのではなく、以前からあった湖上汽船が引き続き交通手段として使われました。従来から県内には様々な汽船会社がありましたが、二つの鉄道の敷設に伴い、その間をつなぐ役割を担うべく、会社同士が熾烈に争うようになりました。
そうした混乱状況を収拾するため、政府と県は大阪の大資本藤田組に対し、新会社を設立して各会社を統合することを要請しました。その結果、明治15年(1882年)5月に太湖汽船会社が設立され、以後、同社によって鉄道連絡船が運航されるようになりました。しかしながら、当時の新聞を見てみると、太湖汽船にすぐには統合されない会社が存在したこともわかります。
ここでは、新聞記事をもとに、太湖汽船の設立や他社の存在、両社の関係について取り上げてみたいと思います。
2-1「滋賀通信」(太湖汽船の鉄船竣工に関する報道) 明治15年(1882年)1月10日
本資料は、太湖汽船が設立される数か月前に、同社が英国のキルビー商社に注文した鉄船2隻が竣工したことを報じた記事です。これは日本最初の鉄船であり、巨大堅牢、速度も速く、汽車の発着時間に合わせて大津・長浜間を航行しました。記事には、これによって輸送・交通の利便が得られ、「当地の繁昌」を来たすだろうとの期待感が表れています。(『京都新報』)
2-2「船業の紛紜」 明治15年(1882年)11月17日
会社同士の争いを収拾するために太湖汽船が設立されたものの、対立はすぐにはなくならず、むしろ、同社と他社とが争うといった問題が新たに起こることとなりました。
当時、ほかにも真宗丸会社や金蔵会社が、太湖汽船とは独立して営業していました。真宗丸会社は、明治14年(1881年)10月ごろ、福井の者を中心に、そのほか大阪・愛媛・滋賀の有志者も発起人に含め、北国筋から京都の東西本願寺に参詣する人々の乗船を当て込んで設立された会社であり、また、金蔵会社は真宗丸会社と「一味同体」であったといわれます。
太湖汽船はこの二社を自社に合併させようとしましたが、二社は応じませんでした。そこで、太湖汽船と二社との間で、運賃引き下げによる旅客の争奪、桟橋押領などの競争・対立が起こりました。(『京都滋賀新報』)
2-3「矢張合併」 明治16年(1883年)4月3日
太湖汽船と真宗丸会社・金蔵会社との対立は、新聞上で明治15年(1882年)9月から翌年1月ごろにかけて繰り返し取り上げられ、2か月近くにわたる連載が組まれるほどでした。しかし、最終的に、真宗丸会社は大阪の住友の仲裁によって太湖汽船に合併され、船を売り渡し、また、太湖汽船と金蔵会社との和解も成立しました。以後、太湖汽船は、明治23年(1890年)の東海道線全通によって汽船の重要性が失われていくまで、湖上交通の要となっていきます。(『京都滋賀新報』)
2-4「真宗会社」 明治16年(1883年)6月8日
その後の時期に関して、興味深い記述があります。本資料では、このごろ金蔵会社社長の坂本賢一郎などが、福井の敦賀港に「真宗会社」を設立し、丹後に支社を設け、「敦賀及丹後より江州長浜迄の汽船」を営業しようと計画していることが書かれています。太湖汽船に合併されて解散した真宗丸会社の元社員のなかからも、「真宗会社」に移る者がいたようです。
この計画は、近代以前から構想があったといわれる敦賀・琵琶湖間の運河開削を想定したものだったのでしょうか。詳細や以後の動向はわかりませんが、当時の滋賀県やその周辺地域における交通・経済・文化のありようを具体的にとらえるうえで、このような太湖汽船以外の会社の存在も注目できるのではないでしょうか。(『京都滋賀新報』)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
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