滋賀県は古くからホタルの名所とされた場所があり、戦前には皇室に献上されていました。明治前半期は石山のホタルが中心でしたが、明治後半期からは守山周辺のものも献上されるようになります。
現在、皇室への献上では、恒例のもののみ受け付けていますが、戦前の「献品取扱内規」(1891年(明治24年))には、直接、宮内大臣に願い出ることができる高等官の官僚や華族等以外は、道府県庁を経由して願書を提出することと決まっていました。そのため、献上に関する文書が経由する自治体に残ることがあります。
今回の展示では、滋賀県から献上されていたホタルについて、関連の歴史公文書を中心にご紹介します。
①「蛍奉献の儀に付御願書」1903年(明治36年)6月5日
これは、石山寺住職・菅原真照が、滋賀県知事に宛てて、関西行啓中である皇太子・皇太子妃(後の大正天皇・貞明皇后)が須磨・大阪に滞在する間、その慰みとして蛍を献上したいと願い出た資料です。
この文書には「当山産出の蛍毎年宮内省に奉献の例有之候(これありそうろう)」とあり、毎年、宮内省へ献納されていたようです。これが、いつからはじまったかは明らかではありませんが、1897年5月25日付『読売新聞』の記事で、石山寺から京都滞在中の明治天皇に石山ホタルを献上することが報じられています。その中に「先年石山寺より侍従職を経て宮内省に献上」されたとあり、それ以前から行われていたのは確かといえます。
また『六大新報』(403号、1911年)の記事には、石山寺がホタルを献上することが報じられています。そして、そのホタルを入れる籠は明治天皇の滋賀県行幸(1878年)や、1910年の皇太子滋賀県巡啓の際に玉座・御座所ともなった同寺月見亭を模したものだったそうで、後には趣向を凝らした献上も行われていたようです。【明か9-1(20)】
②「守山小学校献上蛍写真」1915年(大正4年)頃
これは、御大礼の記念として守山小学校から献上されるホタルと、その籠を写した写真です。守山のホタルが献上されるきっかけとなったのは、動物学者であった渡瀬庄三郎による滋賀県でのホタル調査でした。その調査拠点となった物部村(現・守山市)の白水楼の主だった江畑栄太郎が、渡瀬の調査に協力する中で、守山周辺のホタルの重要性を知り、明治天皇に献上しようと思い立ちます。
守山出身の政治家で首相経験者ある宇野宗佑の『庄屋平兵衛獄門記』には、自身が伝え聞いた話として、江畑による献上が実現するまでの話が記されています。同書によると江畑は1901年にホタルの献上を試みました。これを知った宮内省式部長官・三宮義胤(滋賀県出身)は、同省内蔵頭(くらのかみ)・渡辺千秋(元滋賀県知事)を通じて宮内大臣に取り計り、翌年以降、献上が行われるようになります。しかし1914年に江畑が大阪に転居したため、以降は守山小学校が中心となって行われます。【大か6(8)】
③「陳情書」1910年(明治43年)6月8日
『近江栗太郡志』(3巻)は、江畑栄太郎に代わって守山小学校による皇室へのホタル献上が行われたとしますが、以前にも行われていたようです。
この資料は、3皇孫(後の昭和天皇・秩父宮雍仁・高松宮宣仁)に対するホタルの献上を願い出た同校からの陳情書です。陳情書には、石山ホタルが近年減少する中で代わりに守山で捕獲したホタルを石山に放つ計画があるほどに多産であること、守山ホタルは動物学者・渡瀬庄三郎の調査などによって注目を受けていることをあげています。また興味深いのは、1878年の明治天皇の滋賀県行幸で同校は御駐輦(ごちゅうれん)の栄を受けた、つまり立ち寄られたという縁故を強調している点です。献上においては、皇室との縁もまた重要であったことがうかがえます。
この献上以来、守山からの3皇孫へのホタル献上が定着することとなります。なお、ホタルの採取を行っていた児童が肥溜めに落ちて以降は、青年団が代わって行うようになったそうです(『守山市誌 自然編』)。【明か12(7)】
④「史蹟名勝天然紀念物報告書」1920年(大正9年)10月13日
このように献上されていた守山のホタルでしたが、石山ホタルと同様に、その数を減らしつつありました。「史蹟名勝天然紀念物保存法」(1919年)に基づく史跡や名勝、天然紀念物指定に関わる調査報告書である本資料によれば、守山ホタルが都市へと売られ、それに伴う乱獲で数を減らしていること、そして守山青年団が保護活動を実施していることなどが記されています。
この保護活動のきっかけは、1919年6月に大阪毎日新聞社長・本山彦一が守山ホタルを見物したことからとされています。本山は、守山ホタルが減少していることを知り、岐阜で昆虫研究所を運営していた名和靖に保護方法の研究を委嘱し、その結果を地元の人々に伝えました(『松陰本山彦一翁 本編』)。それを受けて守山青年団が1920年より保護活動に乗り出すことになったそうです。
資料では青年団による保護があり、緊急性は低いとしていましたが、1924年にはゲンジボタル発生地として、当時の守山町と物部村の河川が天然紀念物に指定されることになります(内務省告示第777号)。【大せ36(1-22)】