三井寺(正式には長等山園城寺)は、大津市長等山中腹に位置する天台寺門宗の古刹です。前近代の本寺の歴史については、令和5年(2023年)に「智証大師円珍関係文書典籍」がユネスコ「世界の記憶」に登録されたこともあり、再び脚光を浴びています。
その一方、三井寺が近代に入りどのように移り変わっていったのかについては、よく知られていません。県政最初期の県庁が境内の円満院に置かれたこと、境内の一部が陸軍の駐屯地とされたことなど、三井寺は滋賀県における近代化の影響を直接受けた寺院でもありました。
ここでは、当館所蔵の歴史公文書のなかから、本寺に関係する文書をご紹介したいと思います。
①「円満院代地に付嘆願書」明治5年(1872年)3月
明治元年(1868年)4月に大津県が発足します。県庁舎は旧大津代官所が使われましたが、その後移転を繰り返し、明治2年正月、三井寺境内の円満院に置かれました。新庁舎開庁の明治21年まで、およそ20年間は円満院が県政の中心舞台となっていたのです。
一方、県庁舎となった円満院は、代用地を探さなければなりませんでした。当初、県は三井寺山坊内の千乗院、西蓮院の二院を代用地にしようとしました。しかし円満院は、遠隔地のため法務に差し支えがある、また祖先の墳墓があるといった理由から別の場所を求めました。本資料は円満院僧正から県庁に宛てた嘆願書です。最終的には、勧学院(今も三井寺南院に残る)を円満院の代用地とすることに決まりました。 【明す576(4-2)】
②「元園城寺境内のうち陸軍用地の図」明治6年(1873年)5月
明治6年に徴兵令が施行されると、陸軍歩兵第九連隊が大津に置かれました。三井寺側は土地とともに立木も陸軍に引き渡しています。兵営は明治8年に完成し、第九連隊は同年3月に移転してきました。今の大津商業高校の位置に兵舎が、皇子山総合運動公園の位置に練兵場がありました。第九連隊は大正14年(1925年)に京都の深草へ移動します。新羅善神堂のある北院と呼ばれる一帯には、実に半世紀もの間、兵営が敷かれていたということです。【明ひ1-26】
③「琵琶湖疏水御用地に係る植物取除手当料取調書」([明治18年])
琵琶湖疏水の第一トンネルは、三保ヶ崎を取水口として三井寺観音堂の麓を経て藤尾村に至ります。工事の際には、疏水用地にかかる立木が伐採されました。三井寺の境内にあった大木も例外ではありませんでした。これらは工事に用いる木材として使用されたと考えられます。本資料には、取り除かれた植物や境内の設備、寺側に支払われた手当料が記されています。
なお、疏水工事では従来の水道管が切断され、大津西部一帯で飲料水の供給が途絶えるという問題が発生しています。このとき、京都府は三井寺境内に水源地を見出し、飲料水として各所へ配給しました。【明ね36(6)】
④「寺中建造物大修理に付補助費下賜願」明治39年(1906年)3月16日
明治37年・38年の日露戦争時には、7万余というロシア兵が捕虜となり日本に送られました。第九連隊が置かれた大津市には、26か所の捕虜収容所が設置されており、三井寺山内にある諸院も使用されました。三井寺では山内11の院・堂が収容施設や事務所・衛兵屯所に充てられ、計646人の捕虜が収容されました。
この資料は、戦後、三井寺が陸軍に対して建物修理費の補助を願い出たものです。願書によれば、寺の容積不相応の捕虜を収容したことによる建物の損傷は甚だしいものでした。この三井寺の訴えを、県知事や大津市長も後援しましたが、全面的な修理に足りる費用を陸軍から得ることはできませんでした。【明し77(111-16)】