昭和18年(1943年)11月、皇族で防衛総司令官の東久邇宮稔彦王陸軍大将が、滋賀県を視察しました。その時の視察の記録をまとめた『東久邇宮御成関係書類』【昭か33】には、県の公文書として記録されにくい、防空設備や軍需産業に関する資料が数多くつづられています。本展示では、そのような貴重な歴史公文書から、戦時下の滋賀県の様子を見ていきたいと思います。
1「言上書」 昭和18年(1943年)
本資料は菊池盛登知事の「言上書」で、防空監視隊や防空に関わる設備、非常用の食糧、資材の備蓄、近隣府県への応援準備など、滋賀県における「防空一般概況」に関して説明しています。特に、琵琶湖上の船舶への警報伝達用の吹流と点滅信号機の設置や、消火のためのポンプ船の配備に触れている点は、滋賀県特有の事情を反映したものといえます。この後、朝日紡績株式会社草津工場、大津陸軍少年飛行兵学校、八幡監視哨など3か所の防空監視哨への視察に向かいました。 【編次1-1】
2「殿下御台覧滑空実施計画」 昭和18年(1943年)
本資料は、東久邇宮の大津陸軍少年飛行兵学校への視察に際しての、グライダー訓練の実施計画です。同校は昭和18年4月に開校し、少年飛行兵に対して中学3、4年生相当の学力および、飛行兵としての基礎的な教育の実施を担っていました。【編次7】
3「朝日紡績株式会社草津工場概况」 昭和18年(1943年)
朝日紡績株式会社草津工場は、軍需用の帆布を製造し、陸軍被服廠や海軍艦政本部など、軍の関係機関を主な納入先としていました。本資料では、こうした生産活動に関する説明のほか、職場内での組織の編成や消火設備の整備など、工場の「自衛防空」の備えや、警戒警報発令時における作業の継続などについても述べています。 【編次1-4】
4「八幡防空監視所図面」(昭和期)
八幡監視哨は八幡山城址に設置されたもので、大津防空監視隊本部に属し、北方の敦賀、北東の名古屋方面に重点を置いて監視していました。同監視哨からは日本陸海軍の航空機が視界に入るため、一日平均100回、多いときで500回以上の通信があったようです。本資料からは、当時の監視哨の構造がうかがえます。 【編次8】