滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

(17)「帰田法の布告」 明治3年(1870)11月20日

藩財政を救うため、廃藩置県以前に膳所藩で実施された禄制改革。明治維新後に士族・卒となった旧藩士が対象で、慰労扶持(旧家禄)を返上して平民となれば、農業や商業のための土地・金銭を受け取ることができるというものです。申請そのものは、各自の判断に委ねられましたが、出願時期が遅くなるに従い、条件が悪くなりました。そのため、明治4年7月の廃藩時点で、士族・卒にとどまっていたのは、40戸余りにすぎませんでした。(『膳所県史』【行政資料423】)

 

(18)「元膳所藩帰農人え説諭の大略」 明治5年(1872)4月

明治4年11月、膳所県が大津県に合併されると、藩財政のために士族籍を捨てた旧膳所藩士たちは、士族籍への復帰と家禄の再給付を訴えました。それに対して、県令松田道之は、現在の士族は「天下遊民ノ巨魁」であると非難し、たとえ士族に復帰しても、恒久的な家禄は見込めないと諭しました。また士族は単なる名称にすぎず、その「民権」については「平民ト異ルノ理ナシ」と、四民平等の観点からも批判しています。【明い226(1)】

 

(19)「元膳所藩帰農人元籍引き戻しの達」明治5年(1872)8月(25日)

旧膳所藩士からの度重なる請願を受け、明治5年8月、大蔵省はその内168人は帰農が終わっていないとして、士族籍への復帰を認めます。本文書は、その県から旧藩士たちへの通達文です。旧藩士の内、帰農のための資本金が全て支給されていない者が復籍できることになりました。ただし、残りの705人は不許可となり、その後も請願が続けられることになります。彼らの復籍が認められたのは、明治9年6月のことでした。【明さ38合本3(2)】

 

(20)「洋風器械の図」 明治9年(1876)4月13日 

かつては 「近江国第一の都会」と言われた彦根も、廃藩以後は年々衰退の一途をたどり、士族たちの暮らしは苦しくなっていきました。そこで旧彦根藩士の武節貫治と磯崎芳樹は、士族授産のため、外国への輸出品として注目された生糸の生産に着目します。明治9年4月、彦根に製糸場を設立するよう県に訴え、紆余曲折を経て、同11年に犬上郡平田村(現彦根市)に彦根製糸場が創設されました。 本図は、その設立嘆願書に添付されたものです。【明さ100(1)】

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