(13)「立校方法概略」 明治6年(1873)2月8日
県令松田道之が小学校設立の方法を具体的に示した布達。明治5年8月、太政官が布告した「学制」を受けたものです。原則として1区(数か村)につき1校を設立し、学校入費は貧富に応じた戸別割とすることが定められました。一方で極貧者は出資を免除されたり、講や会社などを通じた多様な資金徴収の方法が示されています。他にも私学・私塾の活用や、校舎の民家・寺院の借り入れなど、民衆の負担を考慮に入れた柔軟な運用法が提示されています。【明い231(16)】
(14)「地券取調惣絵図(犬上郡第9区)」 明治6年(1873)10月
地券発行のために作成された絵図。明治5年8月、滋賀県は戸長・総戸長の中から各郡1名ずつ地券取調用掛を任命し、取扱心得方凡例書を布達しました。その第6条において、地引絵図は後年の証拠となるので、1村につき2枚(県庁提出分と村方保管分)作成するよう命じています。この時県庁に提出された絵図のほとんどは、現在県立図書館で保管されていますが、本絵図は数少ない県庁保管分の1枚です。1筆ごとに細かく地番が振られています。【明へ63合本1】
(15)「大津兵営地所請取証図面」 明治6年(1873)10月7日
明治6年1月、徴兵令が施行されるにともない、歩兵第9連隊の兵営が大津に設置されることが決まります。本図面は、大阪鎮台が兵営建築のために、滋賀県より取得した土地の図面です。赤色部分は慶応4年4月に兵部省(陸軍省の前身)が園城寺から借り上げていた1万坪で、黄色の部分が新たに取得した1万9300坪です。「亀岳」とあるのは、現在の弘文天皇(大友皇子)陵ですが、当時は陵墓の根拠がないとして、翌7年1月陸軍省に引き渡されています。【明ひ1(75)】
(16)「日吉社暴挙之儀に付歎願書并弾正台御尋件の御答」 明治6年(1873)6月5日
慶応4年3月、太政官は神道国教化政策を進めるため、神社から仏教的色彩を排除する神仏判然令を布告します。これを受け、同年4月、日吉社社司の樹下茂国らは、同社の仏具・経典などを焼き捨てるという強硬措置をとりました。この事件は、全国最初の廃仏毀釈の事例として知られ、明治6年5月、太政官正院に置かれた歴史課(現・東京大学史料編纂所)は、滋賀県に事件の照会を行っています。本史料は、その顛末を記した延暦寺からの回答です。【明す18(23)】