(9)「区制の開始」 明治5年(1872)2月晦日
明治4年4月、太政官は戸籍法を発布し、戸籍編製のための区画(数か町村で1区)とその事務を担う戸長の設置を定めました。滋賀県では、翌5年2月に区を設置し、その代表として組惣代の入札(選挙)を命じています。さらに4月には、組惣代の名称を廃止して戸長と改称。戸籍編製のみならず、区内の諸事務を担う役割が与えられました。当初滋賀県では67の区が設けられましたが、同年9月に犬上県と合併し、合わせて158区となりました。【明い30合本1(43)】
(10)「戸長改称の達」 明治5年(1872)8月
明治5年4月9日、太政官は庄屋・年寄など町村の代表者の名称を廃止し、戸長・副戸長と改称するよう布告します。同年8月、滋賀県では庄屋を戸長、年寄を副戸長と改称するよう命じました。それにともない、従来区の代表であった戸長は、総戸長と改称。翌6年3月には区長となります。同年11月には、区戸長の職掌や選挙規則などが整備されました。区長は正副戸長による投票、戸長は町村住民全員による投票で選ばれたようです。【明い31合本1(20)】
(11)「『公費』の成立」 明治6年(1873)11月19日
区や町村では、区戸長の給料や道路・橋梁等の修繕費、学校運営費などの諸経費(民費)を住民から集めていました。松田県令はそれらを「公費」と呼び、区戸長の独断で処理することを禁じます。町村公費は総地主や総戸主、区公費は正副戸長に加え、地主総代人や戸主総代の合意を取り付けて徴収するよう命じました。また、財政の透明化を図るため、区戸長は大まかな費目ごとに金額を記した「公費表」を自宅に掲示することとなりました。【明い44(103)】
(12)「区戸長公選の建言書」 明治8年(1875)8月10日
明治8年6月に開催された地方官会議において、県会・区会などの地方民会はしばらく区戸長を議員とすることが定められます。権令籠手田安定は滋賀県における区戸長の公選経験を踏まえ、全国的にその実施を広げるよう内務省に求めました。人民による選挙は、「濫撰」(みだりに選ぶ)に流れることもあるが、次第に「濫撰ノ我ニ益ナク、而シテ吾事ニ損アルヲ知覚」するようになると、県下での公選は人民に浸透していると自信をみせています。【明お76合本5(1)】