(5)「県名改称の達」 明治5年(1872)1月19日
大津県を滋賀県と改称するという太政官からの達。改名のきっかけは、明治4年12月、大蔵省に出された県令松田道之の要望書でした。松田によれば、旧幕府代官所が置かれた大津の名称をこのまま用いることは、「愚民」が旧習を捨てて、開化に進む障害になるといいます。県庁舎が置かれた円満院が滋賀郡別所村にあることなどから、その郡名をとって滋賀県と改めるべきだと訴えたのです。この上申は「至当」と認められ、翌年1月滋賀県と改められます。2月には長浜県も犬上県に改称し、9月に滋賀県に合併され、現在と同じ領域を統治する滋賀県が誕生しました。【明う152(13)】
(6)「初代県令松田道之」 (年代不詳)
初代滋賀県令となった松田道之は、天保10年(1839)5月、鳥取藩士久保居明の次男として生まれました。幼少の頃に両親を亡くしたため、親戚の松田発明に養われ、幕末には養父とともに尊王運動に関わりました。新政府発足後は徴士に任じられ、内国事務局権判事、京都府判事、同大参事を経て、明治4年(1871)11月に大津県令に就任しています。明治8年3月、内務省に転任し、地租改正や地方三新法の制定、琉球併合(琉球処分)に関わりました。(滋賀県蔵)
(7)「県治所見」 明治7年(1874)1月11日
松田道之が県政の当面施行すべき事業を県官員に示した指針。本文は20か条から成り、冒頭では「官必スシモ営業事務ニ明ニシテ、人民必スシモ皆ナ愚ナルニアラス」と、官がみだりに人民の私的行為に介入することを強く戒めています。まず県会を興して人民に議会の便利さを理解させ、その後区町村会の設立を促すという方法や、民費の負担が大きい学校設立を強制してはならないといった柔軟な姿勢に、松田の細やかな気配りが見て取れます。【明い246合本2(2)】
(8)「松田道之事務引継書」 明治8年(1875)4月24日
明治8年3月23日、内務省に転任した松田道之は、後継の籠手田安定のために引継書を作成します。前年の「県治所見」を補足する内容で、県会や区町村会のほかにも「私会」を設けたり、盟約を結ぶことを奨励しました。世の中の事柄や県政に関する議論が活性化して、県庁が苦しむくらいが「最モ所好」だと述べています。たとえ議論が過激になっても、国法に触れない以上は咎めてはならず、却って県政のために喜ぶべきだと懐の深さを示しています。【明い59合本5(19)】