(1)「大津裁判所設立日の照会」 明治9年(1876)5月24日
大津裁判所とは、慶応4年(1868)に近江・若狭の新政府直轄地を治めるため設けられた地方行政機関のことです。旧大津代官屋敷に置かれ、その総督は公家の長谷信篤が任命されました。滋賀県の前身にあたる機関でしたが、その数年後には、県でも設立日が不明となっており、修史局(太政官の国史編纂所)に問い合わせています。同局は、国の進達録では長谷の総督拝命日が3月7日であるため、設立日も同日と定めていると返答しています。【明あ246合本1(25)】
(2)「県令所規則」 慶応4年(1868)8月
慶応4年閏4月、太政官は「政体書」を発布し、地方は府・藩・県が並立する三治体制となります。近江国でも大津裁判所が廃され、新たに大津県が発足しました。本規則は同県の職制を示したもので、初代知事には広島藩士の辻将曹が就いています。知事の下には、判事2名・権判事3名・判事試補1名が置かれ、東民政部・西民政部・租税部・監察部のいずれかを担いました。さらにその下には書記・伝達・掌簿など13の職が置かれています。【明お41合本2(2)】
(3)「大津県印」 (明治初年)
大津県で用いられた公印。印の大きさは6.5cm×6.5cmで、材質は石でできています。当初の県庁舎は、旧大津代官所が使われましたが、その後移転を繰り返し、明治2年(1869)1月、園城寺境内の円満院に置かれました。管轄地は幕府代官の旧支配地が中心で、近江・伊勢両国中に点在していました。廃藩置県後になされた府県統合にともない、明治4年11月には、近江国南部6郡(滋賀・栗太・野洲・甲賀・蒲生・神崎)へと大きく変更されました。【行政資料566】
(4)「議事大意条例」 明治5年(1872)1月
大津南町顕証寺で開かれた地方民会「議事所」の議事会則。大津県令松田道之の「県庁の為めに県内の人民あるにあらす、県内人民の為めに県庁あると知るへし」という「公論」重視の考えがしめされています。大里正・中里正(数か村の代表)と富裕層が「県内の公益」「人民の幸福」を議論する場として設けられました。ただし、国政に関することや、開化を妨げる議題は堅く禁じられ、議決の執行には県庁の許可が必要などの制限が存在していました。【明い36(23)】