1-1「川々堤防等普請所官自取調の布令書」 明治5年(1872)4月
江戸時代における河川堤防等の改修は、幕府や諸藩が負担する「御普請」と、百姓らが負担する「自普請」がありました。明治5年4月、大蔵省は従来まちまちであったこれらの区分(「官費」「自費」)と、明治元年から3年間の官費総額を報告するよう府県に命じました。本資料は、その指示を受けて、県が各村に宛てた布令書(法令)です。5月20日までに、これまでの慣習の証拠書類を添え、雛形に合わせて提出するよう求めています。【明い30-2(40)】
1-2「甲賀郡石部村川々堤防等官自箇所取調書」 明治5年(1872)5月
資料1-1の布令書を受けて、甲賀郡石部村(現・湖南市)で作成された調書です。この村の場合、堤7か所は自普請でしたが、それ以外の堤防、井堰(川の水をせき止める所)、ため池など、100を超える設備は全て官費と報告しています。明治2年にはため池が浚渫され、人夫のべ100人の代金10両が支給されたようです。当館では、本資料が綴じられた簿冊を含め、同様の資料41冊(明ぬ1~41)を所蔵しています。【明ぬ1(1)】
1-3「元滋賀県管下六郡堤防等官自箇所進達書」 明治6年(1873)3月
大蔵省が提出を求めた官自箇所調書のうち、滋賀県と犬上県が合併することとなった明治5年9月以前から滋賀県が管轄していた地域(滋賀・甲賀など6郡)の分は、明治6年3月に提出されました。それに対し、犬上県の旧管轄地(犬上・愛知など6郡)は、書類の引継ぎが遅れた上、肝心の官自の区別が調査できていなかったため、期限に間に合いませんでした。官自が判別しにくい村々もあり、結局全ての調書が提出されたのは、同年6月のことでした。【明う49(11)】
1-4「橋梁等修築の方法等改正見込取調書」 明治6年(1873)3月31日
明治6年4月から開催される地方官会同(府知事・県令招集の会議)に向けて、県令松田道之が大蔵省に提出した建議書です。松田によれば、現在橋梁等の改修は、これまでの慣習に従い官費が支出されているものの、詳しい起源は不明で甚だ「不公平」なものだったようです。大戸川や野洲川のような「一国の大川」の堤防や、瀬田橋のような「大橋梁」の改修には官費を補助すべきだが、それ以外の「普通の橋梁」等は地域で助け合って負担すべきと主張しています。【明う173(8)】