展示期間 令和5年7月24日(月)~令和5年10月19日(木)
2023年は大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災から100年目を迎えました。
この未曾有の災害が発生した当時、滋賀県から東京府(現・東京都)などの被災地への医師の派遣、救援物資の輸送が行われました。この時代から他地域への被災地支援の動きがあったことがうかがえます。
一方で滋賀県内でも様々な災害が発生し、その度に被災地で救援活動、支援活動が行われました。大きな被害をもたらした災害の例として姉川地震、琵琶湖大水害、室戸台風を取り上げ、当時の状況を振り返っていきたいと思います。
本展示は、閲覧いただく方々に災害を歴史上の事実というだけではなく、「自分のこと」だという意識を高めていただけるような展示としたいと思います。当時の人びとがどのように災害に向き合い、助け合い、乗り越えてきたのかを、写真資料も交えて紹介していきます。(展示図録)
1 琵琶湖大水害 | 2姉川地震 | 3 関東大震災と滋賀県 |
4関東大震災と関西府県連合 | 5室戸台風と滋賀県 | 6東日本大震災と滋賀県 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 災害時こそ手を取りあってー地震・水害・台風ー
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1-1「水害概況報告第5回」 明治29年(1896年)9月25日
明治29年(1896年)8月30日から9月初旬にかけて、滋賀県は豪雨に見舞われました。この資料は蒲生郡長から知事への水害概況報告で、琵琶湖の水位が急上昇し、約4メートル増水した地域もあったそうです。避難者は家財道具や食料を運び出す間もなく、着の身着のまま逃げてきたことや、押し流された木に家が引っかかり一命を取り留めた人々を救助したことなど、当時の混乱した状況が記録されています。【明は10(29)】
1-2「風災の状況報告」 明治29年(1896年)9月1日
水害に加えて風の影響もあり、神崎郡(現・東近江市)の沿湖の各村ではほとんどの家屋が破損していました。また、食料の貯えもなく、郡内では炊き出しも行っていたようです。本資料には、稲が変色したため収穫量の減少が見込まれることなど、先行きを不安視する報告が綴られています。【明は9(49)】
1-3「災民救助規則」 明治29年(1896年)10月5日
冠水した町の人びとは、家屋の流出等によりたちまち生活に困窮したため、県は食料の支援を行うための規則を定めました。独身で60歳以上15歳未満の人や病にかかっていて働けない人などを対象としています。また家族の人数に応じて支給額が異なりました。 【明こ195(47)】
1-4「野洲郡での浸水被害」(『琵琶湖治水沿革誌』所収) 明治29年(1896年)9月~10月頃
水害の際に、野洲郡北里村(現・近江八幡市)で撮影された写真です。家の上に上がって避難している人が見えます。水が引くまでは、船で移動していたようです。琵琶湖の水位は徐々に低下したようですが、常水位に戻ったのは2か月後のことでした。【資524】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 災害時こそ手を取りあってー地震・水害・台風ー
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2-1「県医師会東浅井郡支部臨時救療所設置規程」明治42年(1909年)8月27日
明治42年(1909年)8月14日、滋賀県北東部の姉川を震源とする大地震が発生します。被害状況は死者35名、重軽傷者643名、全壊した民家は972棟におよびました。東浅井郡役所は日本赤十字社滋賀支部に依頼し、治療所を設置しました。その後救護は滋賀県医師会に引き継がれ、嘱託医員9名が無報酬で治療にあたりました。【明ふ158-3(5)】
2-2「震災状況調(坂田郡役所「震災記録」の提出)」 明治43年(1910年)8月31日
この資料は各地の被害を詳細に記録したもので、善行を行った人物の記録も掲載されています。たとえば、ある寺院の住職は、自身が創立した看護婦(看護師)養成所の看護婦3名を派遣し、自らも義捐金を集め、雑誌200冊を児童に贈るなど奔走したようです。春照村(現・米原市)の青年は、落石に当たり重傷の男性を戸板に寝かせ医師の自宅へ運びました。【明そ6-2(3)】
2-3「小屋掛材料給与の義御願」 明治42年(1909年)9月9日
姉川地震により自宅が全壊してしまった東浅井郡小谷村の人々から、再建のための材料の提供を願い、同郡へ出された文書です。平時から貧しい生活であること、親族に頼れないなどの切羽詰まった状況が述べられています。小谷村役場では戸主の年齢や職業、坪数を調査した上で、屋根や土間用の杉、柱用の丸太など、どの材料が必要か調べ、この文書とともに郡役所に提出しました。【明ふ160-1(1)】
2-4「救護所の看護婦たち(『滋賀県震災実景写真帖』所収)」 明治43年(1910年)
日本赤十字社滋賀支部の看護婦(看護師)たちは、テントを張った救護所において手当を行いました。打撲傷の患者数が最も多く、次いで挫創と消化器の病気の患者が多かったようです。滋賀県医師会東浅井支部によれば、傷病者は減っていったが秋を迎えて気温が下がる中で、被災の疲れによる伝染病が流行したようです。【国立国会図書館デジタルコレクション】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 災害時こそ手を取りあってー地震・水害・台風ー
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