日本で食用蛙(ウシガエル)が広がる始まりは、大正7年(1918年)にアメリカから輸入されたことでした。その輸入された食用蛙が産卵に成功すると、農商務省を通じて滋賀・茨城両県の水産試験場に分譲され、試験飼育が委託されます。つまり滋賀県は、日本における食用蛙養殖の先駆けとなった場所の一つだったのです。そして両県への分譲は、将来的に琵琶湖や霞ヶ浦で自然繁殖させることを想定したものであったともいわれています。
その滋賀県では、昭和3年(1928年)に滋賀県養蛙組合が結成され、昭和8年にはアメリカへ輸出するまでになります。また結成直後の組合は、カエルを食用とすることになじみのない人々に向け、食用蛙販路開拓の普及宣伝活動として試食会を開催します。
本展示では、昭和3年に開催された「食用蛙試食デー」について、歴史公文書(『副業』【昭た486】)から見ていきたいと思います。
①「食用蛙試食デー開催承認の件、案1・伺」昭和3年(1928年)6月26日
昭和3年3月に滋賀県養蛙組合は結成されます。組合は、食用蛙販路開拓事業として「試食デー」の計画をたて、その後援を県と県水産試験場へ申し出ました。本資料には養蛙業の現状に適合した宣伝事業であるため、これを承認したいとの伺いがなされています。【編次4-1】
②「食用蛙試食デー開催承認の件、案2・後援に付通牒」昭和3年(1928年)6月26日
本資料は、①の続きにあたり、滋賀県養蛙組合からの申出への対応が記載されています。本資料には(1)この事業は自費で行うこと、(2)損害賠償が必要になった場合は組合で負担すること、(3)問題が生じた場合は後援取消し、また、県や県水産試験場から係員を派遣し、必要に応じて調査・指揮を受けること、などを条件に後援を認めることが書かれています。【編次4-2】
③「献立及料金」昭和3年(1928年)6月26日
本資料には試食デーで提供されるコース料理の内容が記載されています。これによると提供される料理は、フロッグスープとフロッグフライ、フロッグライス、フレッシュフロッグサラダ、そしてフルーツにコーヒーでした。また一人前の値段は1円50銭とあり、企業物価指数を基に現在の価値に換算すると、およそ1200円程度になります。【編次4-2】
④「食用蛙試食デー開催成績報告」昭和3年(1928年)7月18日
本資料は昭和3年7月3日から15日の期間に滋賀県下で実施された試食会の結果報告です。この資料によると「試食デー」は全日程で876名の参加を得て、266キログラム(71貫匁、1貫匁=3.75キログラム)のウシガエルを使用し、「予期以上の好成績を挙げ」たとあります。【編次4-3】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
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三井寺(正式には長等山園城寺)は、大津市長等山中腹に位置する天台寺門宗の古刹です。前近代の本寺の歴史については、令和5年(2023年)に「智証大師円珍関係文書典籍」がユネスコ「世界の記憶」に登録されたこともあり、再び脚光を浴びています。
その一方、三井寺が近代に入りどのように移り変わっていったのかについては、よく知られていません。県政最初期の県庁が境内の円満院に置かれたこと、境内の一部が陸軍の駐屯地とされたことなど、三井寺は滋賀県における近代化の影響を直接受けた寺院でもありました。
ここでは、当館所蔵の歴史公文書のなかから、本寺に関係する文書をご紹介したいと思います。
①「円満院代地に付嘆願書」明治5年(1872年)3月
明治元年(1868年)4月に大津県が発足します。県庁舎は旧大津代官所が使われましたが、その後移転を繰り返し、明治2年正月、三井寺境内の円満院に置かれました。新庁舎開庁の明治21年まで、およそ20年間は円満院が県政の中心舞台となっていたのです。
一方、県庁舎となった円満院は、代用地を探さなければなりませんでした。当初、県は三井寺山坊内の千乗院、西蓮院の二院を代用地にしようとしました。しかし円満院は、遠隔地のため法務に差し支えがある、また祖先の墳墓があるといった理由から別の場所を求めました。本資料は円満院僧正から県庁に宛てた嘆願書です。最終的には、勧学院(今も三井寺南院に残る)を円満院の代用地とすることに決まりました。 【明す576(4-2)】
②「元園城寺境内のうち陸軍用地の図」明治6年(1873年)5月
明治6年に徴兵令が施行されると、陸軍歩兵第九連隊が大津に置かれました。三井寺側は土地とともに立木も陸軍に引き渡しています。兵営は明治8年に完成し、第九連隊は同年3月に移転してきました。今の大津商業高校の位置に兵舎が、皇子山総合運動公園の位置に練兵場がありました。第九連隊は大正14年(1925年)に京都の深草へ移動します。新羅善神堂のある北院と呼ばれる一帯には、実に半世紀もの間、兵営が敷かれていたということです。【明ひ1-26】
③「琵琶湖疏水御用地に係る植物取除手当料取調書」([明治18年])
琵琶湖疏水の第一トンネルは、三保ヶ崎を取水口として三井寺観音堂の麓を経て藤尾村に至ります。工事の際には、疏水用地にかかる立木が伐採されました。三井寺の境内にあった大木も例外ではありませんでした。これらは工事に用いる木材として使用されたと考えられます。本資料には、取り除かれた植物や境内の設備、寺側に支払われた手当料が記されています。
なお、疏水工事では従来の水道管が切断され、大津西部一帯で飲料水の供給が途絶えるという問題が発生しています。このとき、京都府は三井寺境内に水源地を見出し、飲料水として各所へ配給しました。【明ね36(6)】
④「寺中建造物大修理に付補助費下賜願」明治39年(1906年)3月16日
明治37年・38年の日露戦争時には、7万余というロシア兵が捕虜となり日本に送られました。第九連隊が置かれた大津市には、26か所の捕虜収容所が設置されており、三井寺山内にある諸院も使用されました。三井寺では山内11の院・堂が収容施設や事務所・衛兵屯所に充てられ、計646人の捕虜が収容されました。
この資料は、戦後、三井寺が陸軍に対して建物修理費の補助を願い出たものです。願書によれば、寺の容積不相応の捕虜を収容したことによる建物の損傷は甚だしいものでした。この三井寺の訴えを、県知事や大津市長も後援しましたが、全面的な修理に足りる費用を陸軍から得ることはできませんでした。【明し77(111-16)】
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明治24年(1891)5月11日、大津を訪問していたロシア皇太子のニコライを、警備中の津田三蔵巡査が斬りつける事件が発生しました。「大津事件」です。本展示では、令和4年度(2022)に警察本部から公文書館に移管された大津事件関係資料の一部をご紹介します。
1「露国皇太子殿下を傷けたる現場略図」 明治24年(1891)5月
滋賀県庁を発したニコライは京町通を人力車で西に向かい、逢坂峠を越えて京都常盤ホテルに投宿する予定でした。しかし下小唐崎町(現在の京町二丁目付近)を警備していた津田三蔵巡査の前を通過した直後、津田によって斬りつけられました(本資料中の◎印の場所)。津田は即座に捕縛されますが(△印の場所)、大国ロシアの皇太子に危害を加えたこの事件は、政府や社会を大きく揺るがすこととなりました。【令4-6822-8(31)】
2「手続上申書」 明治24年(1891)5月11日
事件が発生すると県警察部は、その場に居合わせた巡査らに聞き込みを行いました。現場の監督者であり、かつ津田三蔵を逮捕した巡査部長は、それまで津田の挙動に異常はなかったこと、見物に来ていた群集の動きに気を取られていた隙に事件が発生したこと、異常に気づき「疾風現場に馳せた」ところ、ある警部が津田を取り押さえている様子を見て初めて、津田が犯人であることに気づいたことなどを、大津警察署長に対して報告しています。【令4-6822-8(34)】
3 「津田三蔵性行調査につき通牒の件」 明治24年(1891)5月13日
県警察部は事件の2日後には各警察署長に対し、管下の警察官のうちこれまで津田三蔵と関係のあった者を調査し、津田の素行について報告するよう命じました。津田の「生活向及貧富」、愛読の新聞雑誌類、飲酒状況、「神仏信仰の如何」などを調査項目として提示していることからは、事件発生直後の警察部が津田の犯行動機について、どのような可能性を推測していたかが窺われます。【令4-6822-5(1)】
4「上申書」 明治24年(1891)5月15日
県警察部は、事件後における県内各地の人びとの様子についても調査していました。彦根警察署高宮分署長は、「人民一般此の椿事(珍事)の結果如何(いか)んを憂慮」し、「狂漢津田三蔵か所為を悪(にく)まさる者無」いと報告しています。実際、「細民」の間には、ロシアとの戦争が発生するとの風説が流れていたといいます。ただし彼/彼女らの心配は、戦争によって「米価の騰貴」が発生するという点にもあり、国家的危機として事件の行く末を憂慮した「村長其他有志者」らとは、「其趣は異な」っていたようです。【令4-6822-7(38)】
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