滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

 天智天皇は大津京を開き近江令を制定するなど、滋賀県にゆかりの深い天皇です。滋賀県では明治以降、天智天皇の顕彰が展開されました。こうした動きは、史蹟の発掘調査など学術的な展開も見せつつ、昭和15年(1940年)の近江神宮建立へとつながっていきます。ここでは近代の滋賀県における天智天皇や大津京をめぐる動きに注目してみたいと思います。

 

5-1「天智天皇紀念祭」 明治26年(1893年 )2月25日

 明治26年(1893年)2月25日付『日出新聞』には「天智天皇紀念祭」と題した記事が掲載されています。このころ、京都では平安奠都千百年祭の一環として、平安京を築いた桓武天皇を祭神とする平安神宮の造営が進められていました。滋賀でも大津商工協会の発起で、天智天皇の銅像の建設や公園を整備し、京都での桓武天皇紀念祭と同時に紀念祭を挙行する計画が進められていると紹介されています。
 記事で紹介されている紀念祭については続報がなく、開催されることはなかったものと思われますが、明治28年(1895年)には大津町長西村文四郎らによって「志賀宮趾碑」が滋賀郡滋賀村に建設されています。(『日出新聞』)

 

5-2「大津神宮創設請願書進達の件」 明治42年(1909年)12月22日

 明治41年(1908年)大津市長西川太治郎は、大津市施行10周年記念に際して、大津の発展の由来を大津京の遷都にありとし、天智天皇を祭神とする神社の創建を熱望する旨を市として初めて明らかにしました。この翌年、西川ら37名は総理大臣、内務大臣、大蔵大臣に宛てて「大津宮創建請願書」を提出します。
 展示の資料は、知事から請願書の提出を伝える文書です。このころ、大津宮創建に関する請願は帝国議会へしばしば提出され、委員会でも採択されたようですが、創建に向けた具体的な動きにはつながりませんでした。【明す650(2)】

 

5-3「肥後和男発柴田實宛書簡」 昭和12年(1937年)5月17日

 神社創建に向けた運動のみならず、大津京史蹟に対する学術的な調査、研究も実施されました。大正9年(1920年)県下の史蹟、名勝、天然記念物を調査するために滋賀県保勝会が組織されました。昭和3年(1928年)からは、滋賀県史蹟調査委員の肥後和男が会の嘱託として、伝崇福寺跡や南滋賀の遺跡の発掘調査にあたり、その成果は『大津京址の研究』(滋賀県史蹟調査報告第2冊)として刊行されました。その後、昭和13年(1938年)からは、県史蹟調査委員の柴田實による第二次調査が行われることとなります。
 この資料は『大津京阯の研究』が加筆修正のうえ再刊される過程で、肥後が柴田に宛てて送った書簡です。【昭せ37-2(1)】

 

5-4「近江神宮奉賛会総裁高松宮殿下より賜りたる令旨 昭和19年(1944年)11月5日

 昭和15年(1940年)11月、近江神宮の鎮座祭が行われました。この年は初代神武天皇の即位から2600年とされる年であり、神宮の創建もその記念事業という性格を有していました。
 昭和13年(1938 年)5月に神宮の創建と官幣大社に列する聖旨が出されると、同日奉賛会の会長に近衛文麿が、翌年4月には総裁に高松宮宣仁親王が、それぞれ就任しました。なお、造営費用は公金のほか多額の寄附によって賄われました。神宮の整備は鎮座祭ののちも、戦時下での資材や労働力の不足に悩まされながらも進められ、昭和19年(1944年)11月に竣功式が行われました。
 展示の資料は竣功式に際して高松宮から下された令旨です。【大か24(23-7)】

 

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