展示期間 平成29年10月23日(月)~平成29年11月30日(木)

今年は、明治時代に初めて「国宝」が制定されて、120年の記念の年に当たります。明治維新により諸制度の改革が行われ、人々の習俗、慣習が急激に変化する中、廃仏毀釈による仏像破壊や文明開化の風潮による伝統的文化の軽視により、古い文化財は散逸の危機にさらされました。そのような中、政府は「古器旧物保存方」(明治4年)の布告から始まり、「古社寺保存法」(明治30年)や「国宝保存法」(昭和4年)などの法律制定を通して、漸次、文化財保護体制を整えていきます。こうした法律に基づき、本県の歴史や文化を伝える貴重な国宝が数多く指定されていきます。
今回の展示では、その中でも現在も国宝として指定されている県内の著名な建築物に焦点をあてました。延暦寺根本中堂や園城寺金堂、石山寺本堂などの姿を、公文書に残された絵図や平面図などで紹介していきたいと思います。
| 1公文書の中の”国宝”建築 | 【コラム】“国宝”誕生の軌跡 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 公文書にみる滋賀の”国宝”建築
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1-1「臨時全国宝物取調局の滋賀県内調査につき訓令」 明治21年(1888) 10月30日
内務大臣山縣有朋から滋賀県に出された訓令です。臨時全国宝物取調局は、綾部藩出身の文部官僚九鬼隆一を委員長として、9月に設置されました。滋賀県から始まった古社寺や個人に伝来する美術品・宝物の調査は、岡倉天心や高村光雲の尽力のもとに行われ、以後の文化財保護行政の端緒となります。【明せ11(2)】

1-2「石山寺見取り絵図」 明治28年(1895)
良弁僧正によって建立された石山寺の地は、古くから石切り場として知られ、東大寺建立に際しても木材の集積地として、大きな役割を果たしました。紫式部と源氏物語の言い伝えや近江八景など、文学の舞台としても知られています。図面内には、寺名の由来となり本堂の基盤でもある天然記念物の硅灰石(けいかいせき)の部分が、黒く彩られています。【明す658(15)】
1-3「石山寺本堂側面図」 明治36年(1903)頃
桁行七間・梁間四間の本堂は、現存する滋賀県最古の木造建築で国宝に指定されています。一度は大火にあいましたが、永長元年(1096)に内陣が再建、慶長7年(1602)には外陣が豊臣秀吉の側室淀殿の寄進により増築されました。多数の長柱によって崖からせりだした床を支える懸造(かけづくり)が特徴となっています。【明せ75(1)】

1-4「旧彦根城郭保存に付き」 明治11年(1878)10月15日
明治維新により、彦根城にも旧体制の遺物として破壊される運命が目前にせまっていました。しかし、明治11年の明治天皇行幸の際、供奉していた参議大隈重信や地元の人々の熱意により、天守や櫓の保存が決定したといわれます。この史料は、宮内卿徳大寺実則からそのことを県に内達したものです。【明あ112(49)】

1-5「園城寺金堂梁間図」 明治32年(1899)頃
三井寺の通称で知られる園城寺の国宝金堂を記した平面図です。 正面と側面の柱と柱の間数が7間と、ほぼ正方形の入母屋造りをしており、慶長四年(1599)豊臣秀吉の正室北政所によって再建されました。天台宗本堂の特徴として内陣が土間のままで、それ以外は板敷きとなっています。【明せ24(60)】

1-6「園城寺光淨院客殿平面図」 明治36~42年(1903~1909)
光淨院は山内で最も格式の高い子院で、城郭を思わせる石垣を備えています。外観は勧学院とほぼ同じであり、戦国武将の山岡景友(道阿弥)によって慶長六年(1601)に再建されました。内部は京狩野で知られる狩野山楽の障壁画(重要文化財)が設えられ、桃山時代の代表的な書院として知られています。【明せ33(2)】

1-7「園城寺勧学院客殿平面図」 大正15年(1926)6月
勧学院は、学問所として延応元年(1239)に創建されました。国宝の客殿は、火災や豊臣秀吉の破壊などを受けながらも、慶長五年(1600)に豊臣秀頼によって再建されます。内部が大きく三列に区分され、重要文化財に指定された狩野光信の障壁画が張り巡らされています。【大せ28(2)】

1-8「古社寺保存法」 明治30年(1897)頃
この法律は、明治30年に古社寺の建造物および宝物類の保存を目的として、制定されたものです。当時、古社寺では建造物や宝物の維持・管理が困難な状況でした。そのため出願に基づいて内務大臣が古社寺保存会に諮問したうえで特別保護建造物等の指定を行い、建造物の保存を定めたものです。【大せ9-4(2-4)】

1-9「延暦寺根本中堂梁間図」 明治32年(1899)頃
伝教大師最澄によって創建された延暦寺は、東塔・西塔・横川にそれぞれ仏堂があり、その中でも最大規模をほこる国宝の根本中堂(東塔)は、寛永十七年(1640)に創建された延暦寺の総本堂です。園城寺金堂と同じく、密教建築の基本的形式を残しており、礼堂である外陣は板敷、内陣は土間となっています。【明せ61(16)】

1-10「都久夫須麻神社境内配置図」 大正10年(1921)5月
都久夫須麻神社は、琵琶湖に浮かぶ竹生島に創建され、本殿が国宝に指定されています。長く神仏習合の形態を現在の宝厳寺とともに保ってきましたが、明治時代に入り神仏分離令の影響によって、神社となりました。この絵図は、神社の昇格が願い出された時に作成されたものです。【大す84(5)】

1-11「都久夫須麻神社本殿古写真」 大正11年(1922)2月
大正11年に写されたこの国宝都久夫須麻神社本殿は、永禄十年(1567)に再建された建物と慶長七年(1602)豊臣秀頼によって移築・寄進された伏見城の遺構が組み合わされたものです。極彩色豊かな彫刻や金蒔絵が施されており、桃山時代の歴史を伝える代表的な建築物といわれています。【大す102(10)】

1-12「国宝保存法」 昭和4年(1929)
古社寺保存法は、国や地方公共団体、個人の所有物は保存措置の対象となっていませんでした。一方、城郭建築や社寺以外の個人所有物も保護を必要とするものが多く、時代の推移とともに法整備の必要性が高まります。そこで制定されたのが同法であり、古社寺保存法により特別保護建造物として定められた物件は、国宝保存法による国宝として指定されたものとみなされました。【昭せ37-3(1-2)】

1-13「御上神社見取り絵図」 昭和6年(1931)10月
近江富士で知られる三上山を神体山とする御上神社は、来年平成30年(2018)に遷座1300年を迎えます。国宝の本殿は鎌倉時代後期建立と推定され、入母屋造りや連子窓の仏堂要素が融合した神社建築です。この絵図は昭和6年の本殿修理工事にあわせて作成されました。【昭せ12(8)】

1-14「日吉大社拝殿配置図」 昭和9年(1934)5月
比叡山の麓に位置する日吉大社は、日吉・日枝・山王神社の総本宮と位置づけられ、天正十四年(1586)創建の西本宮本殿と文禄四年(1595)創建の東本宮本殿が国宝に指定されています。桁行五間と梁間三間の母屋には正面と側面に庇が付き、その独特の形式は日吉造りといわれています。【昭せ30-1(2)】
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はじめに
2017年は、明治時代に初めて「国宝」が制定されて、120年の節目の年に当たります。明治維新により諸制度の改革が行われ、人々の習俗、慣習が急激に変化する中で、廃仏毀釈による仏像破壊や文明開化の風潮による伝統的文化の軽視により、古い文化財は散逸の危機にさらされました。そのような中で、政府は「古器旧物保存方」(明治4年)の布告を出発点として、漸次、文化財保護体制を整えていきます。そして滋賀県でも、その歴史や文化を伝える貴重な国宝が、数多く指定されていきます。
今回は、「国宝」の概念が誕生するまでの軌跡と滋賀県の関わりについて、その時代的背景をたどっていきたいと思います。
廃仏毀釈など明治維新後の状況
今から150年前の大政奉還を経て、江戸幕府からの政権が移った明治政府は、国学者の復古思想による「祭政一致」を政治基盤の理念とし、神道を国教化する政策を推し進めました。明治元年(1868)3月28日に神仏分離令が発布されると、それまで庶民の生活に浸透していた仏教を、排斥していこうとする動きが起こります。神祇や祭祀の興隆を目指し、神仏習合の風習を禁止しようとする廃仏毀釈運動は、そのような中で引き起こされることになりました。それまで仏教の影響下で神仏習合を受け継いできた一部地域の神社などでは、権現や牛頭天王などといった仏教の理念により命名されていた称号の改名や、社僧の還俗、梵鐘などの仏具が取り除かれていきます。
中でもその激しい舞台となったのが、比叡山山麓の日吉大社でした。日吉造りといわれる独特の建築様式が評価され、現在本殿が国宝にも指定されている日吉大社は、延暦寺が伝教大師最澄によって創建された後、同寺の鎮守神や山麓各村の惣氏神として崇められ、長年にわたって神仏習合の大切な象徴となっていました。そしてそのことは、真言宗などの他宗派にも見受けられることであり、決して天台宗だけの特別な形態という訳ではありません。
神仏分離令が布告された数日後の4月1日、日吉大社社司で政府の神祇事務局事務掛となっていた樹下茂国(じゅげしげくに)は、京都吉田神社配下の神官たちによって結成された神威隊とともに坂本を訪れ、日吉大社神殿の鍵を明け渡すよう延暦寺に通告します。しかし、延暦寺側は神仏分離令の布告が天台座主から通達されていないことを理由にこれを拒否します。樹下たちは坂本の農民100人も巻き込み社殿に乱入、貴重な仏像や経典、仏具など膨大な宝物を破壊・焼却してしまいました(『新修 大津市 史第5巻』)。この事件以後、延暦寺や坂本の農民の願いも空しく、日吉大社の管理や山王祭の執行権も延暦寺から離れることとなります。
また、この神仏分離令の影響は湖島の竹生島にも波及します。湖岸から約六キロの地点にある竹生島は、古代より浅井姫命を祭神とする都久夫須麻神社と弁財天を本尊とする宝厳寺とが共存していましたが、明治四年(1871)、大津県庁は弁財天社の都久夫須麻神社への改称を命じました。この難題に対し宝厳寺は寛大の処置を求めますが、大津県の強硬な態度により結局は改称命令は受け入れられ、竹生島の神仏分離は完了します。
明治政府の神仏分離令を契機として、こうした廃仏毀釈の風潮は全国に広まっていきました。伝統的な文化として地域に根付いていた寺院建築や仏像などの仏教美術は破壊・散逸が加速され、また、江戸幕府の瓦解による旧体制の崩壊という社会変革も、社寺の経済力を低下させ貴重な宝物の売却・流失を招く、という一因になりました。
臨時全国宝物取調局と古社寺保存法の誕生
政府もこうした文化財の散逸と急激に進んで行く文明開化の風潮から古来よりの文化や精神が反映されている貴重な文化財を守るべく、明治4年(1871)には、太政官が「古器旧物保存方」を布告し、文化財亡失を防ぐ所有者への啓発を初めて実施します。翌明治5年(1872)には宝物調査の一環である「壬申調査」が近畿圏の古社寺や正倉院で行われました。
そして明治21年(1888)9月、宮内省に「臨時全国宝物取調局」が設置され、滋賀県が全国で最初の調査地に選ばれます。まずは予備調査が行われ、各郡役所が「宝物目録」を取りまとめます【明せ11(3)】。その後、本調査に入りますが、この時調査を主導したのが取調局委員長に就任した旧綾部藩士の文部官僚、九鬼隆一でした。九鬼やその他の随行員が滋賀県を訪れると、内務大臣山縣有朋からの訓令を受けていた県も調査に協力します【明せ11(1)】。そして11月29日から12月6日にかけて園城寺や石山寺など県内各地の宝物を調査分類し、優秀なものには鑑査状を交付しました。結果的に、この調査がその後の文化財保護の下地ともなり、明治30年(1897)の「古社寺保存法」制定へとつながっていきます。
当時は、日清戦争を経て民俗的自覚が高まりを見せた時期でもありました。岡倉天心をはじめとする識者や社寺などの関係者の運動によって古社寺保存の機運が醸成され、明治29年(1896)に内務省に古社寺保存会が設置されます。そして翌年、古社寺の建造物および宝物類の保存を目的とし、古社寺だけではその維持・修理が困難な場合にこれを補助・保存することを定めた「古社寺保存法」が制定されました。これは、出願に基づいて内務大臣が九鬼隆一や岡倉天心からなる古社寺保存会に諮問したうえで、建築物に関しては特別保護建造物、絵画・彫刻や工芸品などには国宝の資格を認定しました。認定を受けた物件は処分や差し押さえが禁じられ、国宝については博物館への出陳が義務付けられます。本県は第1回目の認定においては、国宝14件、特別保護建造物では西明寺本堂の1件が認定されています。これは、実質上の文化財の指定制度の導入ともいえます。
このように今年でちょうど120年となる「古社寺保存法」の制定によって、「歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範トナルヘキモノ」とする国宝の概念は誕生したといえるでしょう。
受け継がれる文化財保護の精神
その後、昭和4年(1929)には建造物や宝物その他の重要な文化財をすべて国宝として指定するよう定めた「国宝保存法」が公布され、「古社寺保存法」により特別保護建造物または国宝として定められていた物件は、「国宝保存法」による国宝指定をうけたものとみなされます。これによって、明治維新後に取り壊しを免れた彦根城などの城郭建築【明あ112(49)】、旧大名家の所有宝物類など社寺以外の文化財も指定されることになりました。
第二次世界大戦後「文化財保護法」は制定されましたが、時代とともに変わり行く文化や風俗の中で貴重な文化財を守り通していくためには、今後もさらなる文化財保護の環境整備など不断の努力が求められます。
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 公文書にみる滋賀の”国宝”建築
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