展示期間 令和8年(2026年)2月24日(火)~5月21日(木)
令和5年度から当館では、県史編さん事業を進めており、その資料収集の成果の一部を県史編さん企画展として発信しています。今回の展示では、令和8年に昭和元年から起算して満100年を迎えることを記念し、県史編さんで収集した新聞記事を手がかりに、昭和戦前期の湖国を振り返ります。
昭和の時代とは、激動と変革の時代でした。しかし、それは令和の現在と全く断絶したものではなく、現代へとつながっています。昭和初頭は現在につながる本格的政党政治の起点であり、ウシガエルの移入や小鮎の県外移出は現代の外来種問題にもつながります。また国際観光ホテルの先駆けとなった琵琶湖ホテルや近江学園の前身である三津浜学園の創設は現在のインバウンドや社会福祉にも通じるものです。
これらのトピックスを通じて、昭和の時代と現在とのつながりをみなさんと考えていきたいと思います。ぜひ御覧ください。
| 1 滋賀県における政友会と憲政会 | 2 大嘗祭と滋賀県 | 3 ウシガエルが滋賀県にやってきた! |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 新聞記事からみえた百年前の湖国
- 参照数: 75
1925年(大正14)3月、選挙法が改正されて男子普通選挙制が導入されました。これにより次の総選挙から有権者数が一挙に4倍に増加することになり、国民の政治参加が一層拡大しました。そのため、当時の主要な政党である立憲政友会(以下、政友会)や憲政会は、地域の有力者だけでなく、より民衆を意識した政策を打ち出して、支持基盤の拡大を目指すようになります。
また1925年5月には、立憲国民党(以下、国民党)の系譜をひく政党である革新倶楽部が分裂・解党しました。滋賀県では、反政友会の立場をとる国民党系の勢力が強く、明治期には県政に大きな影響力を有していました。革新倶楽部の分裂の後、県内の旧国民党系の勢力は、各々が当時の主要政党である政友会、憲政会に合流することになります。
この展示では、滋賀県において、政友会と憲政会という二大政党が、国民の政治参加の拡大をどのように受けとめて、互いに競争しながら支持拡大を図っていったのか、普通選挙制の導入直前からその過程を紹介します。
1-1「政友会滋賀支部 選挙改正委員会」1924年(大正13年)8月19日
1924年5月、総選挙の結果をうけて、貴族院を勢力基盤とする清浦奎吾内閣は退陣し、憲政会・政友会・革新倶楽部による連立政権である加藤高明内閣が成立しました。この加藤内閣の成立によって、普通選挙制の実現に向けた動きが本格化し、各政党で選挙法改正に向けた調査が行われました。
展示資料は、政友会滋賀県支部で行われた選挙法改正に関する調査委員会の模様を報じた記事です。注目されるのは、滋賀県支部では、25歳以上の「世帯主」の「男女」に選挙権を付与する意見が採用されている点です。納税額や性別による制限を設けない一方で、世帯の生計を維持する能力の有無を、選挙権を制限する基準として新たに導入する発想があったことがうかがえます。
滋賀県支部の意見が政友会全体でどのように受けとめられたかは分かりませんが、結果的に、1925年に成立した男子普通選挙制度では、女性と公的な支援を受ける生活困窮者の参政権が否定されることになりました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-2「憲政会幹部会で非政友大挙憲政へ」1925年(大正14年)11月5日
政友会と憲政会は次第に税制などの政策をめぐって対立するようになり、1925年7月、政友会は政権を離脱して、加藤内閣は憲政会単独内閣となりました。
展示資料は、11月2日に彦根で開催された憲政会滋賀県支部の幹部会の様子を報じた記事です。幹部会では、コメの等級を検査する近江米同業組合の県営化を目指すことが決められました。これは生産者の検査費用負担の軽減を図る政策であると同時に、政友会の支持基盤になっていた組合を切り崩そうとした動きです。
また、「民衆の信」を失わないために、非政友会系の勢力が結集して、「一定の主義・政策」を打ち出していく必要が主張されている点が注目されます。この主張に応える形で、旧国民党系の人々が中心となって結成していた「県政革新同志会」のメンバーである4人の県会議員(田中養達、橋本二郎、小林郁、向坂政平)が憲政会に入党しました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-3「青年同盟会の除名事件真相」1925年(大正14年)12月22日
一方、旧国民党系の政治家のなかには、政友会に入党する人もいました。その一人、野洲郡の清水銀蔵は、かつて国民党、革新倶楽部に所属して、総選挙に2回立候補しましたが、いずれも政友会の井上敬之助に敗れていました。ところが、革新倶楽部が解党すると、犬養毅と行動を共にして政友会に入党します。
この動きに反発したのが、それまで清水の選挙運動を支援していた青年たちです。展示資料は、野洲郡と栗太郡の青年が組織する「野栗青年同盟会」が、今後は清水を支援しないこととし、清水と通じている会員を除名して、憲政会支持を決議したことを報じる新聞記事です。当時は全国各地で、このような青年たちによる政治団体が結成され、政治家の選挙運動の担い手になっていました。
ただし、野洲郡と栗太郡の政友会の勢力基盤は強固だったようです。清水はこの後、1927年に死去した井上敬之助の地盤を引き継いで衆議院議員に当選し、政友会滋賀県支部長にも就任しました。(『京都日出新聞』滋賀付録)

1-4「憲政派勝つ」1926年(大正15年)4月28日
政友会所属の藤沢万九郎衆議院議員が死去したことをうけて、1926年4月27日に滋賀6区(坂田・東浅井・伊香郡)の補欠選挙が実施されました。この補欠選挙では、憲政会から県会議員の田中養達が立候補し、政友会の吉村平造を破って当選しました。
展示資料は、田中の当選を報じる新聞記事です。記事では、政友会の敗因として蚕業試験場の移転問題が指摘されています。この問題は、県が東浅井郡大郷村にあった蚕業試験場を坂田郡長浜町に移転しようとしたところ、県会において政友会が反対し、移転改築予算案を否決した事件のことです。結果として、坂田郡政友倶楽部が解散するなど、坂田郡では政友会の勢力が後退することになりました。このことは補欠選挙にも影響したとみられ、得票数をみると坂田郡で田中が吉村を大きくリードしたことが分かります。
この後、滋賀県では、二大政党である政友会と憲政会(後に立憲民政党)の対立が激化していくことになります。(『京都日出新聞』朝刊)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 新聞記事からみえた百年前の湖国
- 参照数: 24
1928年(昭和3年)11月、昭和天皇の即位儀礼である、即位礼と大嘗祭(だいじょうさい)(ふたつ合わせて「大礼」)が京都で行われました。即位礼は新しく即位した天皇が神々に奉告する儀式で、大嘗祭は即位後に新天皇が米を神々に供え、共食するという儀式です。
その大嘗祭で用いられる米を収穫して奉納する2か所の水田をそれぞれ悠紀斎田(ゆきさいでん)・主基斎田(すきさいでん)と呼び、前者は京都以東以南、後者は京都以西以北から選ばれます。1928年の大嘗祭では、滋賀県が悠紀斎田を出す地方、福岡県が主基斎田を出す地方に選ばれました。悠紀斎田を出す地方に選ばれた滋賀県が、大嘗祭で用いられる米を収穫するまでの様子を公文書と新聞記事から紹介します。
2-1「復命書」1928年(昭和3年)3月6日
2月5日、悠紀斎田を出す地方・主基斎田を出す地方がそれぞれ滋賀と福岡に決まりました。選ばれた滋賀県は、まず悠紀斎田を選定します。斎田の選定には、水田の耕作面積や風水害のおそれがないことなどのほか、太田主(斎田の所有者)候補者の人物や家庭状況、水田が所在する町村の状況などが考慮され、最終候補地には知事自らが視察に赴いています。資料は彦根測候所長による調査復命書で、等温線図を添付して、候補地のうち野洲郡三上村(現・野洲市三上)が最も高温であるため最適であるとしています。このような関係部署による調査を経て、悠紀斎田は三上村の粂川春治の所有田に決定しました。【昭た452(11)】

2-2「緩やかな歌詞と田植踊りに合せ 厳粛裡にお田植を終る」1928年(昭和3年)6月2日
6月1日から3日にかけて御田植祭が行われました。この初日の様子を『京都日出新聞』は大きく報じています。これによると、多賀神社宮司が斎主となって式を進め、児童文学者・巌谷小波の作詞による悠紀斎田御田植歌とお田植踊とにあわせて苗の植え付けが行われました。式では、八日市飛行連隊や民間飛行機による奉祝飛行も行われ、近隣の府県知事など1000名あまりの参列者、10万名近くの拝観者が訪れて盛況であったといいます。これを報じた京都日出新聞社は事前に紙面上で参加者を募集し、拝観団を組織して参観しました。(『京都日出新聞』夕刊)

2-3「大礼記念事業調」1928年(昭和3年)8月6日
昭和天皇の大礼が行われるにあたり、各団体がこぞって記念事業を行いました。滋賀県は、各町村および町村内の団体、県立学校で計画された記念事業を取りまとめ、内務省に報告しています。資料は内務省への報告書の控えで、これによると、天皇の肖像画と教育勅語とを収める奉安庫の建設(滋賀郡伊香立村など)、戦死者を顕彰する忠魂碑の建設(在郷軍人会草津町分会など)といった国家への忠誠心を高めようとする事業のほか、組合伝染病院の設置(栗太郡大宝村・物部村・葉山村・常盤村4か村合同)、図書館の建設(甲賀郡水口町など)、稲(米)作増収品評会(大原村農会など)、貯金事業(宇津呂村青年団など)などの産業振興や社会事業が計画されました。【昭か79-2(3)】

2-4「五十風十雨(ごふうじゅうう)恙(つつ)がなく けふ抜穂の儀を終る」1928年(昭和3年)9月17日
9月16日に、斎田で稔った稲の刈り入れを開始する儀式である抜穂式が行われました。記事によれば、東京から派遣された抜穂使が祝詞をあげた後、太田主がお祓いをした農具で稲の刈り入れを行いました。次いで、その稲を知事と抜穂使が点検し、その後で太田主が奉納しました。大勢の拝観者に加え、八日市飛行隊による奉祝飛行もあり盛況であったといいます。収穫された斎田の稲は一部を玄米としたほかは精米されて京都に送られ、11月14日から15日にかけて挙行される大嘗祭で用いられました。(『京都日出新聞』夕刊)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 新聞記事からみえた百年前の湖国
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