展示期間 令和7年1月27日(月)~令和7年5月22日(木)
令和5年度から当館では、県史編さん事業を進めており、その資料収集の成果の一部を県史編さん企画展として発信しています。今回の展示では、日露戦争下の銃後協力から大正期の米騒動までを主に取り上げます。
日清・日露両戦争を経て日本は、大国意識をもつとともに、文化・社会の著しい発展の時期を迎えます。本県も、明治末期にはビワイチのはじまりといえる自転車競走大会や嘉仁皇太子(後の大正天皇)の滋賀巡啓が実施され、大正期に入ると京都―大津間の電車が開通するとともに、飛行場という最先端技術に関わる施設が整備されました。しかし第一次世界大戦にともなう物価高は社会不安を引き起こし、全国的な米不足が発生すると本県でも米騒動が起こりました。
本展示では、そうした湖国の発展と新たな社会問題の発生について当時の新聞記事等を手がかりに御紹介します。
1 滋賀県と日露戦争 | 2 ”ビワイチ”の起源 | 3 嘉仁皇太子の巡啓と「花の木」献上 |
4 京津電鉄敷設をめぐる、二度の競願と合同 | 5 八日市飛行場の歩み | 6 滋賀県の米騒動 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 大正時代の出発と湖国の発展―新聞でたどる文化・社会―
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1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、戦場から離れていた日本は、輸出が急増して未曽有の好景気を迎えました。ところが物価が急上昇したため、賃金がなかなか上がらない庶民は、かえって生活が苦しくなりました。
特に米の値段は、業者の投機的な取引が行われたこともあって高騰し、生活難に拍車がかかりました。その結果、1918年7月から8月にかけて、米騒動と呼ばれる大規模な暴動が全国各地で発生するに至ります。このようななか、滋賀県でも米騒動は発生しましたが、近隣の他府県と比べると規模が小さく、近畿で唯一、治安維持のための軍隊の出動がありませんでした。
ここでは、滋賀県における米騒動の実態と行政の対応について、新聞記事と公文書をとおしてみていきます。
6-1「蒲生在米豊富」1918年(大正7年)8月6日
この記事は、蒲生郡内の米の在庫は豊富なので米不足に悲観する必要はない、という行政当局の見解を伝えています。8月11日に同じ『京都日出新聞』が、8月中に京都市内の米の在庫が尽きる可能性があると危機的に報じているのと対照的です。
実際にどれくらい米の在庫に余裕があったのかは不明ですが、米騒動直前に、米の主要な産地であった滋賀県は、他府県より相対的に在庫が豊富だったことがうかがえます。(『京都日出新聞』)
6-2「長浜騒ぐ」1918年(大正7年)8月14日
7月に富山県で始まった米騒動は全国に波及し、8月10日頃には京都や大阪、神戸で多数の米屋や商店が襲撃される大規模な暴動に発展しました。
滋賀県内も不穏な情勢になります。長浜では12日深夜に突然、警鐘を打ち鳴らし、集まってきた町民に対して、米を買い占めて値段を釣り上げている米屋を襲撃しようと呼びかける者が現れました。この事件は、警察の制止によって群衆が解散したため暴動に発展しませんでしたが、県内各地で同様の事案が散発的に発生し、実際に何軒かの米屋が襲われています。
このような状況をうけて、県は県民に米の買い占めをしないよう厳命し、あわせて安い外国米の大量調達と寄付金の募集によって、市町村が実施する米の廉売を支援しました。県の適切な措置と、もともと在庫が比較的豊富だったことから、滋賀県内ではこれ以上騒動は拡大しませんでした。(『京都日出新聞』)
6-3「郡市長会議資料」1918年(大正7年)8月27日
8月下旬になると、大都市へ供給する米を確保するために、政府の指定を受けた商人が産地で大量の買い付けをはじめました。
本資料は、8月27日に開催された郡市長会議の配布資料です。これによると県は、現時点で県内は平穏だが、商人の買い付けが米価高騰を招き、「民心又も擾乱するの兆」があるとみています。県にとって、いまだ油断できない情勢であったことが分かります。
そこで、県は郡・市に収穫期まで米の在庫がもつか調査するよう指示し、かつ米の県外移出を制限することを決定しました。この措置は9月下旬まで続けられ、結果として騒動が再燃することはありませんでした。【大ふ55(19-4)】
6-4「中産者の窮困」1918年(大正7年)10月8日
10月上旬には新米の流通が遅れたため、再び米価が高騰しました。
本資料からは、台湾米の廉売などの救済策が続けられて、貧困層の生活がどうにか支えられていた一方、中間層は生活難に陥っていた様子が分かります。
この後、半月ほど経つと新米が流通したので、米価は20%ほど下落しました。10月末には各地で米の廉売が終了していきます。このとき、廉売の資金にするために集められていた寄付金が残ったので、県民の「生活を安易ならしむる施設」の財源に充てられることとなりました。以降、米騒動の経験をふまえて、各種社会事業団体の設立や「保導委員」(現在の民生委員の前身)制度の開始など、行政による社会事業が展開していきます。(『京都日出新聞』)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 大正時代の出発と湖国の発展―新聞でたどる文化・社会―
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1903年(明治36年)にライト兄弟の飛行が成功して以来、欧米を中心に航空技術の開発が進められ、日本でも航空技術への関心が高まっていました。
当時、滋賀県には、荻田常三郎という人物がいました。荻田は、愛知郡八木荘村(現・愛荘町)出身で、兵役後は家業の呉服商に従事していましたが、兵役中から飛行機に関心を持っていました。そこで1913年(大正2年)10月に、飛行機操縦技術の修得のために渡仏、翌年6月に飛行機一機とともに帰国しました。そして航空技術の紹介・宣伝のため、1914年9月に八日市町南東部に位置する沖野ヶ原を発着場とする郷土訪問飛行を行いました。
この訪問飛行を契機に、八日市町長の横畑耕夫が、飛行場の開設と、そのための後援会の設立を提案し、地元官民有力者からの賛同を得ました。
八日市は古くから市場町として繁栄してきましたが、明治以降は幹線鉄道網から外れたことで、町勢が衰えつつありました。そうした状況の打開のためにも注目されたのが、飛行場開設だったのです。これを機に八日市では、官民有力者が協力して計画が進められていきます。
ここでは、新聞記事や歴史公文書から、飛行場をめぐる八日市の歴史を紹介します。
5-1「八日市飛行場設置に就て」1915年(大正4年)1月10日
本資料は、1915年1月7日に、帝国飛行協会が沖野ヶ原を視察したことを報じた新聞記事です。同協会は、日本における航空機の普及・発達を目的に、1912年に設立された団体です。八日市は飛行場開設を望んでいたものの、そのための実務は容易でなかったため、1914年末に同協会に開設作業を委ねました。視察結果は良好だったようで、翌年4月から工事が開始され、6月中に5万坪の飛行場が完成しました。(『京都日出新聞』)
5-2「八日市と陸軍飛行場」1916年(大正5年)8月30日
飛行場は完成したものの、その運営費の確保については明確な見通しは立っていませんでした。そこで町当局は、その解決方法として、飛行場を軍用飛行場に転用しようと動き出します。
本資料では、八日市町が、隣接三ヶ村(神崎郡御園村、蒲生郡玉緒村、同郡中野村)と協定し、既設の飛行場や格納庫、そのほか必要な分の土地を献納し、陸軍飛行場として提供したい旨を、総理大臣や陸軍大臣らに願い出ようとしていることが報じられています。
当時の陸軍は、1915年10月に、日本初の常設航空部隊として、埼玉県の所沢に航空第一大隊を設置し、さらなる航空大隊の編成を計画していました。上記の八日市や隣接地域の動きは、こうした流れを受けたものでした。(『京都日出新聞』)
5-3「承諾書」1918年(大正7年)5月2日
八日市にとって好機となったのは、1917年11月に湖東地域で実施された、陸軍特別大演習です。その際、八日市飛行場は、演習に参加した航空機の離着陸場となりました。これを機に、八日市町など地元だけでなく、県も加わっての誘致運動が活発化します。そして1918年に、政府より、航空第三大隊設置の内諾が出されます。
航空大隊用地には、既設飛行場の敷地のほか、周辺地も買収して用意し、50万坪もの広大な土地を充てることが計画されました。しかし、その費用は地元八日市町だけで賄えるものではありませんでした。そこで、1918年4月末に森正隆知事から、費用の3分の1を八日市町で、残り3分の2を、蒲生・神崎の2郡と県で用意する分担案が出されます。
本資料は、1918年5月2日に、八日市町長の横畑から森知事に宛てて出された文書です。費用の支出について、町費か有志寄付かなどで議論が紛糾したようですが、知事の分担案を町側が承諾する旨が返答されました。【大お5(8)】
5-4「飛行場沖野ヶ原」1919年(大正8年)5月8日
1919年6月に、費用準備と土地買収が完了、登記手続きが進められ、翌年3月に、50万坪の土地が陸軍用地となりました。
本資料は、費用と土地の用意完了が近づいた同8年5月に出された、新聞記事です。そこでは、飛行場をめぐる沖野ヶ原の歩みが、荻田が郷土訪問飛行をした最初期のころから振り返られ、現在は陸軍飛行場に採用されたこと、近いうちに多数の軍用飛行機が翔け回るであろうことが記されています。
その後、1920年6月より工事が開始され、翌年3月に竣工、以後航空第三大隊隊員が着任し始め、1922年1月に開隊式が開かれました。
開隊以降、町内には新たな家屋が建てられ、次々に人が住むようになり、航空隊誘致は地域に経済効果をもたらしたといえます。
また当初は、毎年、飛行場が一般の人々に開放される機会もありました。しかし、その後は戦争によって軍事機密保護が厳しくなり、地域と飛行場との関係は変わっていくこととなります。(『京都日出新聞』)
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