幕末の開港以来、近代日本の最も重要な輸出品の一つは、蚕の繭(まゆ)を原料として製造する生糸でした。滋賀県では湖北(伊香・浅井・坂田三郡)を中心に古くから養蚕業が盛んであり、江戸時代には湖北で生産した繭は、西陣織や浜縮緬を織る糸の原料になっていました。しかし、蚕を飼育する技術は、東北や関東の養蚕業と比較すると生産効率や品質保持の面で改善の余地がありました。
このような状況のなか、明治時代になると、市場を拡大させていた輸出向けの生糸に適する繭を生産するために、滋賀県でも蚕の品種や養蚕技術を改良しようとする動きがおこりました。本展示では、県史編さん事業の一環で調査した布施家文書(長浜市高月町唐川)を通して、湖北における養蚕技術改良の動向をたどり、地域の人びとが主体となって進めた明治時代の産業振興の様相を紹介したいと思います。

①「近江蚕桑改良義社設立願書」 1885年(明治18年)11月
1885年11月、伊香郡の有力な養蚕家である山岡松煙、布施孫一郎らは、近江蚕桑改良義社(おうみさんそうかいりょうぎしゃ)という結社を設立しました。
展示資料は結社設立の際に、認可を求めて県に提出された願書の写しです。これによると「繭糸は我国特産の事業」であり、日本の経済にとって重要であるのにもかかわらず、滋賀県の養蚕家が「旧慣を固守し粗悪濫製の弊風を顧み」ないのは嘆かわしい、と県内の養蚕業の現状を批判しています。
そして、自分たちは、1880年以来、技術に熟練した選国公平という人物を招いて、木之本に「私立近江養蚕改良法伝習所」を設けて改良技術の普及に努めてきたが、「有益なるを実験熟知」したので、今回、結社を設立してますます事業を拡大していきたい、と述べています。【明え251(2-10)】

②「卒業授証人名」 1886年(明治19年)
近江蚕桑改良義社は、伊香郡、坂田郡、高島郡の各地に伝習所を設置し、生徒(伝習生)を集めて養蚕技術を教授しました。
展示資料は、1886年に伝習所を卒業した伝習生の名簿です。性別に関係なく、年齢は10代後半~30代の人たちが学んでいた様子がうかがえます。なかには県外から来た人もいました。彼らは、伝習所で寄宿生活を送りながら、蚕の餌(えさ)になる桑の栽培や、蚕の飼育方法などを実習方式で学びました。卒業するときには試験を受けて、成績によって等級別の「卒業証」が授与されたようです。名簿にも「卒業等級」の欄が記載されています。
近江蚕桑改良義社は、彼ら伝習生や社員の農家が製造した繭や蚕種(さんしゅ。蚕の卵のことで、「改良蚕種」と称していました)を販売して収益を得ていました。そのため伝習生から授業料や寄宿費は徴収されませんでした。【布施家文書4-1038】

③「選国公平・布施孫一郎紹介状」 1887年(明治20年)3月15日
近江蚕桑改良義社が製造した「改良蚕種」は県外にも販売されました。展示資料は、岐阜県が管下の郡役所宛に作成した書類です。近江蚕桑改良義社の選国公平と布施孫一郎が「蚕種改良上に付、蚕桑の業務地方有志者へ演説」のために来県したので、二人に便宜を与えてほしいと要請しています。選国と布施は、技術指導をしながら、自分たちが製造している「改良蚕種」の普及を図っていたと思われます。
ただし、近江蚕桑改良義社の経営は順調ではありませんでした。それまでの欧州向けに代わって、80年代後半以降に急増した米国向けの生糸は、力織機に適応する必要がありましたが、そのような生糸の原料としては「改良蚕種」の繭は不適合だったようです。また、1890年には恐慌が発生し、経営の逆風になったと思われます。同年、結社の存続を主張する声もありましたが、近江蚕桑改良義社は解散することになりました。 【布施家文書4-47】

④布施孫一郎宛渡辺長謙書簡 1895年(明治28年)9月19日
布施孫一郎は、近江蚕桑改良義社が解散した後も、養蚕技術の改良・普及に携わり続けました。1896年には布施の提唱が契機となり、県の蚕糸業組合を設置主体として簡易蚕業学校(現在の長浜農業高等学校)が長浜町に開校します。
また、布施は自分が住んでいる伊香郡七郷村に、実業補習学校を設置し、養蚕技術教育を行おうとしました。実業補習学校とは、当時の文部省が、職業教育と小学校の補習教育を目的として制定した学校です。展示資料は、県の内務部第三課長(学務担当)の渡辺長謙が布施に送った手紙ですが、渡辺は県内ではじめて実業補習学校が設置されつつあることを喜び、布施を「実業の泰斗」と呼んで称賛しています。
布施の企画は、1896年に伊香農業補習学校が開校して実現しました。同校は現在の伊香高等学校の起源になった学校です。明治時代の産業振興の試みは、学校教育にかたちを変えて現在にも繋(つな)がっているといえます。 【布施家文書4-246】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県史編さん
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明治時代になると欧米の制度にならって小学校が設置されました。そのため、新たな教育を担うことのできる知識と技能をもった教員の養成が必要となり、全国の道府県に「師範学校」という学校教員養成を専門とする学校が設置されていきました。滋賀県でも明治8年(1875年)に小学校教員伝習所が設置され、同年のうちに滋賀県師範学校となりました(明治10年~13年の期間は大津師範学校と改称)。同校と後に設置される滋賀県女子師範学校は、昭和期の官立化による統合をへて戦後の学制改革で廃止されるまで、多くの小学校教員を輩出し、県内の初等教育の拠点であり続けました。
当館では令和5年に県史編さん事業の一環として、滋賀大学附属図書館教育学部分館が所蔵している滋賀県師範学校に関する非公開資料を調査しました。資料の大半は明治期の学校の事務に関わるものですが、なかには昭和期の生徒が記した日誌なども含まれています。本展示では、滋賀県師範学校の資料をとおして滋賀県における教員養成の歴史の一端を紹介します。

①「履歴書」 明治9年(1876年)7月
明治初年に小学校が設置されると、士族や僧侶を中心に漢学や国学など学問の素養のある人たちが取り急ぎ教員の担い手となりました。
彼らに欧米の教授法を授けることを目的として、明治8年(1875年)に滋賀県小学校教員伝習所が大津町に設立されました(同年、滋賀県師範学校に改称)。開設時の修学期間は100日間であり、現職教員向けの教育だったといえます。
本資料は、明治9年に師範学校に入学した僧侶の履歴書です。小学校の教員になる前は、京都の相国寺で禅学と漢学(資料中では支那学)を修めていたことがわかります。
明治10年になると、修学年限2年の師範学科が設置され、現職教育から教員志望者を対象とする教育に転換していきます。ただし、入学対象者は男子に限られていました。

②「困生教育方に付伺ひ奉る」 明治10年(1877年)11月
師範学校の卒業生たちは、地域の初等教育をリードする存在でした。本資料は、師範学校を卒業して野洲郡の小学校に勤務していた教員が明治10年(1877年)年11月に県に提出した伺いの一部です。この伺いでは、経済的な理由などによって学校に通えない子どもに対する教育方法を正規の授業とは別に立案したので、その実施を許可してほしいと求めています。
当時、就学年齢である6歳になっても小学校に通えずに、家業や子守りに従事している子どもが少なくありませんでした。展示している箇所から、どのような教科を教えようとしていたのかがわかります。
この年の6月に滋賀県が定めた「小学教則」と比べると、一部の教科が省略され、「習字」は「読物」で代用されるなど、カリキュラムが簡単になっていました。また、この時期の県の「小学教則」には存在しない「修身口述」が設置されているのも特徴的です。

③「滋賀県師範黌 四年報」 明治13年(1880年)
滋賀県では、明治13年(1880年)になって女性教員の養成がはじまりました。師範学校において当初は小学校の裁縫教員の養成を目指した仮教則が作られましたが、すぐに一般の小学校教員を養成する方針に変更されました。
本資料は、明治13年の滋賀県師範学校の事業報告書です。5月31日に仮規則にもとづく「女学科」が廃止されたことと、この頃、「教授法等」を調査するために、京都府の女学校・女紅場へ師範学校の教員を派遣していたことがわかります。
同年9月に新たに「女子師範学科」が開設されました。制度上は同じ滋賀県師範学校でしたが、男女別学で校舎と寄宿舎は、当初からそれぞれ違う場所にありました。この後、女子の師範教育は、廃止や再設置など様々な制度変更をへて、明治41年に県立大津高等女学校と併設される形で滋賀県女子師範学校として分離独立しました。

④「教練日誌」 昭和6年(1931年)
明治19年(1886年)に師範学校令が施行され、男子の師範教育は、軍隊組織をモデルとして厳しく規律化されました。滋賀県師範学校も全寮制となり、学校生活は「軍隊生活そのまま」であったといいます。大正14年(1925年)からは軍事訓練(学校教練)も課されることになりました。
本資料は、昭和6年(1931年)の学校教練の際に生徒が作成した日誌です。当番の生徒が教練の内容とあわせて自らの所感を記録しました。教官がそれに赤字で注意や評価をすることで生徒たちを指導したのです。この年には満洲事変が起きましたが、軍部の見解を生徒に喧伝している様子もうかがえます。
敗戦後、このような軍国主義教育は否定され、生徒の要求が授業に反映されるなど学校は様変わりしました。そして、昭和24年に発足した滋賀大学学芸部(現教育学部)に転換することで、師範学校はその歴史に幕を下ろしました。
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県史編さん
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日本では、明治時代に入ってから政府によって鉄道事業が推進され、明治5年(1872年)東京・横浜間開業をはじめとし、以後各地で敷設が進められました。滋賀県も、東京と京阪神の間に位置し、また日本海側の物流拠点である敦賀に近接しているため、県内に鉄道が開通することになります。
そのなかで、明治10年代の長浜は、敦賀と関ヶ原両方からの鉄道が通り、また港と湖上汽船の整備がなされたことで、鉄道と汽船を連絡させる交通の結節点となりました。
本展示では、歴史公文書や新聞記事をもとに、当時の長浜の様子を紹介します。

①「新道開墾港口修築願書」明治13年(1880年)1月
明治12年(1879年)10月に敦賀・米原間の鉄道敷設が決定し、長浜にも停車場が設置されることになりました。本資料は、翌13年1月に、縮緬製造業などを営む長浜町の豪商浅見又蔵が、滋賀県令籠手田安定に宛てて出した願書です。
これは、民間有志の出資により、長浜から関ヶ原駅までの間に新たな直線車道を設けること、長浜港を修築すること二点に対する許可を求めるものです。どちらも敦賀・米原間の鉄道敷設が決まったことを受けて考案されたものであり、鉄道・車道・湖上航路を長浜で連絡させ、運輸・交通の利便性を高めるための計画でした。浅見はこれにより、長浜ひいては日本の発展を構想していたようで、本資料からは、鉄道敷設の機運に対する長浜地域内からの期待がうかがえます。なお、当初車道敷設が考えられていた関ヶ原までの区間には、のちに鉄道が開通することになります。【明と9(107)】

②「長浜港略図」明治17年(1884年)5月ごろ
明治13年(1880年)11月から、長浜港の修築が進められました。本資料はその概観を示す図です。修築は、河口付近の土地を掘削して港口を広げ、波止場を設けるものです(黒い斜線部分が掘削箇所)。浅見ら町内有志の出資で行われ、明治16年4月に竣工しました。さらに、鉄道と湖上交通との連絡を考慮し、長浜駅は琵琶湖に隣接した形でつくられました(赤い長方形部分が駅)。
またこの間、明治15年5月に、大阪の大資本藤田組などにより、太湖汽船会社が設立されました。浅見も役員の一人で、同社は、鉄道との連絡を担う船会社として長浜・大津間を結ぶようになります。港の修築では、水中の砂浚えも行われましたが、それは同社の鉄船運航を見越してのものだったようです。【明ぬ121‐2(7)】

③「築港式景況」明治17年(1884年)5月28日
その後、明治16年(1883年)5月に長浜・関ヶ原間の鉄道が、翌17年4月に敦賀・長浜間の鉄道が開通し、また同17年5月には長浜・関ヶ原間が大垣まで延伸されました(明治14年ごろ、敦賀までの起点は米原から長浜に変更)。それを受け、17年5月25日に、長浜・大垣間の仮運転式にあわせて長浜築港式が行われました。本資料は、その様子を報じた新聞記事です。
式では駅に花の門がつくられ、停泊中の各船には色鮮やかな旗が立てられ、夜になると、駅付近には数珠つなぎに無数の灯火がともされました。また、公家出身で明治政府樹立に関わった三条実美(このとき太政大臣)も、大津から太湖汽船の鉄船に乗って訪問しました。彦根など周辺地域からも多くの人が集まり、飲食店や宿屋はにぎわいを見せたようです。
こうして鉄道と港、汽船を備えた長浜は、名実ともに交通の要衝となりました。(『京都滋賀新報』)

④「長浜の衰況」明治22年(1889年)12月8日
しかし、明治20年代に入ると状況は変わりました。長浜の繁栄の一方、湖東地域からは大津・長浜間の鉄道敷設を求める声が上がっており、また政府としても、東京・神戸間の開通が急務でした。そこで、明治21年(1888年)1月に大津・長浜間の敷設が始まりました。当初は長浜を経由して大津と関ヶ原方面を結び、東京・京阪神の幹線とする予定でしたが、急勾配のある長浜経由ルートは避けられ、米原を経由地点とするよう切り替えられました。長浜へは米原から分岐し、敦賀に至る新路線が敷設されることになりました(長浜・関ヶ原間は運転休止に)。
こうして明治22年7月に、東京と京阪神を結ぶ東海道線が全通しました。展示の新聞記事では、その後の長浜の様子が取り上げられています。同線が経由しなくなったことで、駅などは「火の消たる如き有様」で、多くの宿屋や荷受問屋などは米原に移転していったようです。記事には、このように移り変わっていく様子に対する情感が表されています。(『中外電報』)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 県史編さん
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