展示期間 令和5年1月30日(月)~令和5年4月20日(木)
本展示のテーマは、琵琶湖の水をめぐる上流(滋賀県)と下流(京阪神)の争いと協調です。
琵琶湖へは野洲川や姉川、安曇川や愛知川など多くの川から水が流れ込みますが、その出口は瀬田川ひとつです。瀬田川は京都府に入ると宇治川となり、京都府と大阪府の境界あたりで桂川と木津川と合流し、淀川となって大阪湾までつながっています。このため、江戸時代から瀬田川の浚渫や治水をめぐる上下流の対立があり、戦後には発電事業や水資源開発においても駆け引きがありました。そのような中、昭和47年6月に成立した「琵琶湖総合開発特別措置法」に基づき進められた琵琶湖総合開発は、下流に一定の水を供給するとともに、滋賀県内の地域整備(治山や下水道整備等)を併せて行うという、争いの続く上下流の協調が実現した事業でした。
本展示では、「琵琶湖総合開発特別措置法」の成立までの琵琶湖の水をめぐる歴史を、当館所蔵資料から振り返ります。
1 治水をめぐる争い | 2 琵琶湖の利水をめぐる論争 | 3 橋幻の日本横断運河構想 |
4 琵琶湖総合開発に向けて | 展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖の水をめぐって―南郷洗堰から琵琶湖総合開発まで―
- 参照数: 544
1-1「瀬田川改修の上申書」 明治24年(1891)9月30日
県から内務大臣への上申書です。古来水害に悩まされてきた本県は、琵琶湖からの唯一の出口である瀬田川の疎通能力を高めるために浚渫(しゅんせつ)を行なってきました。一方で下流地域は、瀬田川の疎通能力が高まると淀川が増水しやすくなると浚渫(しゅんせつ)には反対してきました。本上申書では、本県の利益が下流の害となることはありうるので、争いが起こらないように瀬田川改修は政府直轄事業にしてほしいと求めています。【明と54-1(25)】
1-2「疏水路通水量の義に付上申」 明治29年(1896)10月20日
明治29年9月初旬、連日の降雨により琵琶湖はどんどん増水し、同月7日には各河川や琵琶湖が氾濫しました。水位がさらに上昇するなか、8日には京都市が琵琶湖疏水の閘門(こうもん)を閉鎖し通水を止めます。焦った県は、13日、速やかに規定の水量を通水させるよう京都府に求めますが、閘門(こうもん)の開閉は京都市の「専権」だとして拒まれました。本文書は、県から内務省に提出した上申書で、京都府の態度を「条理ニ背キタルモノ」と強く非難し、至急開門して通水させるよう求めています。【明ね39(40)】
1-3「瀬田川洗堰築設の義に付上申」 明治29年(1896)10月26日
知事から内務大臣へ宛てた上申書です。明治29年の水害発生当時、淀川(瀬田川)改修工事の一環で、滋賀郡石山村大字南郷に「洗堰」を建設する計画が立てられていました。この堰が完成すれば、瀬田川の流水量が自由に変更できるようになります。ただ、洪水時には堰を閉め切るという計画にはもともと異論があったことに加え、直前の洪水において疏水の閘門(こうもん)を閉鎖された経験のある本県は、大阪と京都の「下流二府ニ利アレハ本県ニ害アルハ地形上免カレ難キ」ことなので、洗堰の建設は「公平至当ノ計画」となるようにと求めています。【明ぬ147(21)】
1-4「南郷洗堰」(『琵琶湖治水沿革誌』所収) 明治末~大正期
明治38年、南郷洗堰が完成し、治水を目的とした瀬田川の水量調節が国により行われるようになります。しかし、その後も、堰の開閉をめぐって上下流の対立は続きます。大正6年の9月末から11月にかけて発生した洪水では、琵琶湖だけでなく、下流でも氾濫が相次ぎ、10月1日には洗堰の角落(流量を調節する角材)が挿入され、瀬田川の流量は減少しました。これにより、琵琶湖の水位がますます上昇することになり、本県は角落の抜取を訴えました。角落の抜取をめぐる上下流の争いは11月になっても収まらず、大正天皇が行幸の際、内務大臣とともに視察するまでになりました。【資524】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖の水をめぐって―南郷洗堰から琵琶湖総合開発まで―
- 参照数: 564
2-1「淀川水系流域一覧図」 昭和48年(1973)3月
昭和48年に水資源開発公団が作成した『琵琶湖開発事業概要書』に所収の図です。琵琶湖は淀川水系にあたり、琵琶湖へは野洲川や姉川、安曇川や愛知川など多くの川から水が流れ込みます。一方でその出口は瀬田川ひとつです。瀬田川は京都府に入ると宇治川となり、京都府と大阪府の境界あたりで桂川と木津川と合流し、淀川となって大阪湾までつながっています。【令3-3911(10)】
2-2「琵琶湖利用対策に関する意見書」 昭和8年(1933)12月22日
県会議長から知事へ提出された琵琶湖の利用に関する意見書です。現状では「天恵ノ大湖」である琵琶湖を開発する手立てがなく「宝庫ヲ死蔵」しているといい、この琵琶湖を利用開発するための方策を樹立するために調査研究機関を設置するよう要望しています。この意見書をうけ、昭和10年4月10日には琵琶湖対策審議会が設置されています。【昭く14(11)
2-3「琵琶湖総合開発に対する意見書」 昭和27年(1952)3月
電源工学や土木の専門家らが、宇治川筋の発電計画に対する建設省案、関西電力案、滋賀県案を比較検討し、建設大臣に提出した意見書です。発電量は建設省案が一番多く下流からの支持を受けていましたが、県は大津市大石地区が水没し、また低水位補償の少ないことなどからこの案には反対していました。その後、昭和28年9月に襲来した台風13号の出水で、琵琶湖開発の重点が発電から治水に移行することとなり、最終的な結論がでないままこの電源開発論争は終結します。【昭ぬ123(7)】
2-4「堅田締切堤案」 昭和35年(1960)8月30日
高度成長期の阪神地区の人口増加や工業の発達にともなって、下流から水の需要が急激に増え、下流の水需要にこたえるための開発案が現れては消えていきました。その1つが琵琶湖総合開発協議会(近畿地方建設局や関係府県で構成)において発表された堅田締切堤案です。これは琵琶湖を堅田と守山の間で締め切り、北湖と南湖に2分して、北湖の水位だけを下げようというものでした。これに対し本県知事は、県を分断して湖北と湖南の格差を大きくするとして反対の態度をとっています。【昭12-21(20)】
2-5「天ケ瀬ダムに関する経緯」 昭和37年(1962)3月
この資料は、洪水調節と発電を目的に計画された天ケ瀬ダム(京都府宇治市、昭和32年着工)建設に関する記録を県がまとめたもので、ダム建設の関係都道府県の解釈をめぐる本県と国とのやり取りも記載されています。国は当初、本県はダム建設費を負担する関係都道府県ではないので意見を徴しないとしていましたが、多くの水没地の発生や、琵琶湖の水位に変動を及ぼす問題等も予想された本県では、当然意見を徴すべきであると抗議しています。 その結果、昭和33年4月25日に、建設大臣から本県へダム建設に対する意見が求められることとなります。【昭12-26(1)】
2-6「水資源開発二法案に関する修正案」 昭和36年(1961)5月
本資料は、水資源開発促進法と水資源開発公団法の二法案に対する本県の修正案をまとめたもので、5月25日に開催された県選出国会議員との懇談会において資料として配布されました。水資源開発促進法の目的として、水資源の総合的な保全、涵養並びに開発及び利用の合理化の促進を図るべきことを明確に規定すべきということや、関係都道府県の範囲を、本県を含む「開発水系全流域に亘る都道府県」とすべきであるということなどを述べています。【昭12-22(3)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 琵琶湖の水をめぐって―南郷洗堰から琵琶湖総合開発まで―
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