展示期間 令和4年10月24日(月)~令和5年1月26日(木)
2022年は、明治5年(1872)9月29日の滋賀県誕生から150年の節目の年にあたり、当館ではこれまで県政150周年記念展を2回開催してきました。最終回となる今回は、県内の交通に着目します。
また、同年10月14日は、新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通して150年を迎える節目でもあります。本県でも、明治13年に京都・大津間が開通して以降、官設鉄道をはじめ多くの私鉄が敷設され、鉄道交通網が発達しました。本県の特徴をなす琵琶湖を利用した湖上交通は、鉄道網の発達により運輸業から観光業へと転身しますが、現在も人々を琵琶湖へといざなっています。また、東海道や中山道でも、隧道や橋梁が近代的技術で建設され、通行の利便性が高まりました。
このように、山々に囲まれ、中央に大きな湖が横たわる本県における交通の歴史を、歴史公文書から振り返ります。ぜひご覧ください。
1 湖上交通と鉄道のはじまり | 2 トンネルがつなぐ湖国 | 3 橋梁の整備 |
4 滋賀を走った私鉄たち | 5 汽船の転身と現在 | 展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 湖国に汽笛が響いた
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1-1「元大聖寺藩製造蒸気船号一番丸並附属品共払下の件」 明治6年(1873)11月29日
かつて琵琶湖の湖上水運は、丸木船・艜(ひらた)(細長く底が浅い小舟)が主流でした。しかし、京都御所警衛の兵員輸送で不便を感じていた加賀国(現石川県)大聖寺藩の石川嶂は、日本初の湖上蒸気船「一番丸」を建造し、明治2年に就航させます。船長は大津百艘船仲間の一庭啓二が務めました。しかし、明治3年6月に、汽船営業に藩が関与できなくなった後は個人へ払下げされます。この文書はその入札者を募るために作成されたものです。【明い44(129)】
1-2「県治所見書」 明治7年(1874)1月11日
滋賀県の初代県令(知事)は開明的な政策で知られる松田道之です。明治5年に松田は蒸気船の就航を推進するため「廻漕會社」を作るように告諭を出します。しかし、丸木船の乗船料の方が安く、思うように蒸気船数は増えなかったようで、年始に官員に示した本文書でも、「湖上運輸の便を盛んにする事」を挙げています。ただし、あくまで、県民への強制はしないように官員へ説いています。【明い246-2(2)】
1-3「鉄道蒸気車駃走図」 明治4年(1871)6月
明治2年11月10日に政府は、日本における最初の鉄道建設計画を決定します。東西の主要都市と日本海・太平洋を結ぶため、東京・京都間の幹線と東京・横浜、京都・神戸、琵琶湖畔・敦賀間の3支線、計4路線を計画しました。この資料は京都府作成の文書に添付されている蒸気機関車の図です。【明と1(2)】
1-4「鉄道製造に付測量として御雇外国人共出張の件達」 明治3年(1870)6月
この文書は、東京・京都間の幹線にあたる鉄道線路測量のため、大津県(滋賀県の前身)へお雇い外国人が出張する旨を、太政官が通達したものです。翌4年6月、県は測量の目印となる杭を抜き取ったりしてはならないと布達しています。しかしながら、明治7年4月には滋賀郡粟津村で測量目標用に立てていた「鉄道旗」が所在不明となり、捜索指示が出る事件も起こりました。【明う151(16)】
1-5「(京都から大津)鉄道建築に付き、工部省達」 明治11年(1878)6月21日
工部省が通知した文書を書き写したものです。13年の6月に完成した大津・京都間の工事は外国人の力を借りず、日本人のみの手で完成させた最初の山岳線工事でした。現在は廃線となっていますが、鉄道記念物に指定されている旧逢坂山トンネルが現存しています。この時現在の京阪びわ湖浜大津駅付近に作られた大津駅は長浜駅へ向かうターミナル駅としてにぎわいました。【明と3-4(1-1)】
1-6「長浜港略図」 明治13年(1880)10月24日
東京・京都・敦賀間は明治10年以降、財政上の理由等から工事が停滞します。その中で滋賀県内は、湖上交通を活用する敷設案が前提となっていきました。そこで米原・敦賀間での敷設の予定でしたが、米原では泥により船の出入りが妨げられることから、長浜が採択され長浜・敦賀間が明治17年に開業を迎えます。その後、22年に東海道線が全通するまでの期間、汽船による「鉄道連絡船」の拠点を担ったのが長浜港と明治15年開業の太湖汽船会社(後の琵琶湖汽船)でした。【明ぬ121(5)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 湖国に汽笛が響いた
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2-1「柳ケ瀬隧道東口図面」 明治17年(1884)以降
柳ケ瀬隧道(トンネル)は長浜・敦賀間の鉄道敷設のため造られました。明治13年に着工し、日本で初めてトンネル工事においてダイナマイトを使用したことでも知られています。全長1352mのトンネル開削は、大雪に見舞われたり、大きな断層を突き抜ける作業のため、4年間におよぶ難工事となりました。本図面からは、柳ケ瀬川に沿って鉄道が走り、トンネルへと線路が続いている様子がわかります。この隧道は、鉄道廃線後の現在も自動車用トンネルとして使われ続けています。【明は7(23)】
2-2「敦賀・柳ケ瀬山隧道西口間、長浜・柳ケ瀬間汽車運転の件」 明治15年(1882)3月7日
明治15年3月10日からの、長浜・敦賀間の鉄道(後の国鉄柳ケ瀬線)開通を知らせる文書です。資料には、あわせて各駅の発車時刻と運賃も示されています。この時は柳ケ瀬隧道が貫通していなかったため、長浜から敦賀へ向かう乗客は隧道の手前で降り、徒歩で山を越えて柳ケ瀬山隧道西口駅で再び汽車に乗っていました。2年後の明治17年には隧道が開通し、大垣・長浜・敦賀が結ばれました。【明あ325-1(23)】
2-3「甲賀郡内東海道筋家棟川、由良谷川、砂川隧道図面」 明治17年(1884)頃
トンネルの開削技術は、街道の整備にも取り入れられました。湖南市にある大砂(沙)川は、東海道と交差するように流れる天井川で、長らく旅人の往来を妨げていました。そこで明治17年、川の下を通る隧道(トンネル)が開削されます。この隧道は、切石を積み上げた現役トンネルとしては日本最古のものといわれており、現在も道路トンネルとして使われています。本絵図には、笠をかぶって歩く人や人力車を利用する人などが描かれ、当時の人々の通行の様子を知ることができます。また、同じく大砂川の下を通る鉄道用の大砂川隧道(第4章で紹介する関西鉄道が開削)も、現在JR草津線のトンネルとして使われ続けています。【明な337(9)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
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