展示期間 令和4年2月28日(月)~令和4年5月26日(木)
本県では、明治5年(1872年)9月29日を「滋賀県誕生の日」としており、今年9月29日にはそれから150年の節目を迎えます。この記念日は、近江国の南部を管轄していた旧滋賀県が、北部を管轄する犬上県(彦根藩が前身)と合併し、現在と同じ県域の滋賀県が誕生した日とされています。
しかし長らく本県では、この合併を滋賀県のはじまりとは位置付けておらず、その合併日もまた、明治5年9月29日とは考えられてきませんでした。それでは、滋賀県はいつ誕生したのでしょうか。
今回の展示では、明治期以来、本県のはじまりはどのように考えられてきたのか、当館が所蔵する歴史公文書等をもとに解き明かします。私たちがイメージする「滋賀県」は、歴史のなかでどのように移り変わってきたのか、「県政150周年」を迎える現在、皆様ととともに振り返ってみたいと思います。
1 滋賀県の成立 | 2 藩から県へ | 3 海があった5年間 |
4 立庁日はいつ? | 5 「滋賀県誕生の日」の成立 | 展示図録 |
- 詳細
- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 滋賀県はいつ誕生したのか
- 参照数: 896
1-1「大津裁判所総督任命の達」 明治元年(1868)3月7日
大津裁判所とは、慶応4年(1868)に近江・若狭両国の新政府直轄地を治めるために設けられた地方行政機関のことです。明治政府の公式記録である本資料には、3月7日に公家の長谷信篤が総督(長官)を拝命したと記されています。しかしその根拠はあいまいで、3月10日という資料や、3月1日には既に任命されているという資料の存在も注記されており、正確な「拝任ノ日ハ知ルへカラス」というのが実態だったようです。(『太政類典草稿』国立公文書館蔵)
1-2「県名改称の達」 明治5年(1872)1月19日
慶応4年(1868)閏4月、太政官が全国を府・藩・県の三治体制に改めたことから、大津裁判所も廃され、新たに大津県が発足します。しかし、もともと幕府代官所が置かれていた大津の名称を用いることは、「愚民」が旧習を捨て、開化に進む障害になるとして、明治4年12月、県名改称の要望書が大蔵省に提出されます。この上申は認められ、翌5年1月、庁舎が置かれた円満院が滋賀郡別所村にあることなどから、その郡名をとり滋賀県と改められました。【明う152(13)】
1-3「犬上県合併の達」 明治5年(1872)9月28日
滋賀県改称時の管轄地は、近江国の南半分にとどまり、北部地域は旧彦根藩を前身とする犬上県が管轄していました。しかしその後、全国的に府県廃合が進められ、明治5年9月28日、太政官は犬上県を廃止して、滋賀県と合併させることを、本資料で滋賀県に通知します。この合併によって、近江国全域が滋賀県の管轄となり、現在と同じ県域の滋賀県が成立することになります。同年10月、県は布令書を発布し、その旨を県民に知らせました。【明う151(27)】
1-4「犬上県合併の布告」 明治5年(1872)9月29日
犬上県合併の達が滋賀県に出された翌日の9月29日、太政官は全国の人民に向けて、その旨を本資料で布告しています。明治18年に太政官文書局が編集した『法令全書』にも、本資料が掲載されていますが、当時『官報』の役割を果たした『太政官日誌』(第77号)には、資料1-3の太政官達が用いられています。そのため、その後の県刊行物においては、『滋賀県統計全書』(明治22年度)を例外として、9月28日の日付が重視されました。【明あ10(97)】
- 詳細
- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 滋賀県はいつ誕生したのか
- 参照数: 514
2-1『膳所県史』 明治期
膳所県とは、近江国南部(現在の大津市域)を中心に領地をもつ膳所藩が、明治4年(1871)7月の廃藩置県にともない、改称したものです。同藩は、もともと京都警備等を職務としていましたが、幕末には財政状況が悪化し、家臣を農業に従事させる帰農政策をすすめました。さらに、明治3年4月には、藩の象徴である膳所城が「修理の為め連年莫大な国用を費」すため廃城となり、翌年7月に廃藩置県を迎えます。同年11月には廃県となり、大津県に合併されました。【資423】
2-2『水口県史』 明治期
近江国南東部(現在の甲賀市域)等を治めた水口藩では、幕末以来「勤王」派の儒者中村栗園が藩の実権を握り、「草莽」と呼ばれる在野の志士たちも、盛んに活動していました。維新後も、明治2年8月に知事の「勤王ノ志」を批判した元入牢者が、藩兵隊員5名によって斬殺される事件が起こっています。藩命によらない行動でしたが、藩は「私闘」ではなく「勤王ノ志気」を鼓舞するためだったと政府に弁明し、結局禁錮3年で済まされました。【資424】
2-3『西大路県史』 明治期
近江国南東部(現在の日野町域など)を治める西大路藩は、もともと仁正寺藩と呼ばれていましたが、仁正寺の読みが西大路に似ていることから、文久2年(1862)4月に改称しました。維新後の諸改革は、藩内に大きな動揺を与えたと見られ、藩庁の批判や国の政策を論じる女性も出てきたようです。そのため、明治3年9月、藩は(女性差別的な考えに基づき)「婦人ノ失言」は家政の不取締が原因だとして、家の主人が厳しく取り締まるよう布令を出しています。【資425】
2-4『山上県史』 明治期
山上藩は、近江国東部(現在の東近江市域)を中心に領地をもちながら、参勤交代が行われず、江戸時代は藩主が江戸に常駐していました。しかし、明治2年(1869)6月に知藩事に任じられた旧藩主の子稲垣太祥は、藩領に居住することになります。そのため翌3年1月、知事一家の新住居建設工事が始まりますが、村々には大きな負担だったようで、同年5月に藩領26か村の庄屋から、新たな建設費負担の延期を求める嘆願書が提出されています。【資426】
- 詳細
- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 滋賀県はいつ誕生したのか
- 参照数: 932