展示期間 令和3年3月1日(月)~同年4月28日(水)
令和3年(2021年)3月、当館では開館記念誌『歴史公文書が語る湖国―明治・大正・昭和の滋賀県―』を刊行いたします。本書は、明治期から昭和期までの滋賀県の歩みについて、当館所蔵の歴史公文書をもとにご紹介するものです。今回の展示では、本書の編集過程で新たに浮かび上がってきた、大正期の観光政策を取り上げたいと思います。
滋賀県の大正期は、近江八景に代表される景勝地が重要な観光資源として、大きな注目を集めた時代でした。大正3年に県は「公園の父」と称される本多静六(東京帝国大学教授)らに、遊覧地にふさわしい施設等の調査(風光調査)を依頼します。この提言を受け、琵琶湖周遊道路に代表されるインフラ整備や、大津市を中心とする都市計画の策定が進められていきました。さらに昭和期には、膳所の湖岸埋め立てや石山公園の設立なども行われ、その努力は昭和25年7月に全国初の国定公園(琵琶湖国定公園)指定として、実を結ぶことになります。
現在、未曽有のコロナ禍のなか、感染拡大地域への不要不急の往来を控えることが求められていますが、本展示を通じて本県の魅力の再発見につなげていただければ幸いです。
1 政友会の党勢拡大 | 2 景勝地の利用と保護 | 3 『滋賀県史』の編纂 |
4 英国王太子の琵琶湖遊覧 | 5 エドワードが描いた富士山 | 6 都市計画の策定 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 湖国遊覧の幕開け
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1-1「江若鉄道敷設免許申請書」 大正7年(1918)12月20日
明治期の滋賀県会は、長らく進歩党系(憲政本党、立憲国民党)の勢力が優勢でしたが、明治末期から立憲政友会系の知事が赴任するようになると、同党は急速に勢力を拡大していきました。たとえば、大正6年12月に赴任した森正隆知事は、湖西の江若鉄道敷設を推進し、当時県会議長を務めた高島郡の有力者・安原仁兵衛(国民党)を政友会に入党させています。本資料は、同鉄道発起人総代の加藤勇から、県に提出された免許申請書です。【大と8(2)】
1-2「堀田義次郎の肖像写真」 大正期
大正8年(1919)4月に赴任した堀田義次郎知事も、原敬内閣の積極政策にならって、巨額の道路改良事業や教育機関(中学校・工業学校等)の整備に努め、県内の党勢拡大に大きな役割を果たしました。堀田は明治7年4月、福岡県で生まれました。同35年に東京帝国大学法科政治学科を卒業し、37年に文官高等試験に合格。内務省に入省後は、愛媛県書記官をはじめ、三重・滋賀・愛知各県の内務部長などを歴任するなど、本県ともゆかりの深い人物でした。【寄1-8】
1-3「高等警察に関する事務引継書」 大正8年(1918)4月
安原や堀田のような政友会系知事の背後には、大正2年から県支部長を務めていた井上敬之助の存在がありました。井上は、県会議長や衆議院議員(6期)、党本部の総務まで歴任した、県政界きっての実力者でした。前知事・森正隆から堀田義次郎知事に引き継がれた本資料(政党政派に関する事項)にも、たびたびその名が登場しています。明治24年に立憲自由党(後の立憲政友会)滋賀支部が結成されて以来、常に井上が県政局の中心にいたことが伺えます。【大お1-2(9)】
1-4木村緑生編著『井上敬之助』 昭和37年(1962)4月
井上は時の総裁原敬の信任も厚く、その影響力の大きさから、「私設知事」とも称されたようです。知事与党の立場を利用して、党勢拡大を強力に推進し、先述の安原や、国民党の重鎮・冨田八郎(伊香郡)などを、次々と政友会に入党させ、「山川草木政友会になびかざるなし」と豪語するほど、政友会の一時代を築き上げました。その功績を称え、昭和37年には、最後の県支部長を務めた服部岩吉の主導で、銅像(大津市打出浜)と本書(評伝)が作られています。(当館蔵)
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 湖国遊覧の幕開け
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2-1『滋賀県風光調査報告』 大正4年(1915)4月24日
公共事業が拡大の一途をたどるなか、近江八景に代表される県内の景勝地も、新たな開発の対象となっていきました。大正2年12月の県会では、「遊覧地」にふさわしい環境整備のため、風光調査の実施を求める建議を可決しています。翌年県内務部は、本多静六(東京帝国大学教授)らに調査を依頼し、本資料をとりまとめました。将来の風景利用には、必ず自動車道が主になるとして、県下全域を包含する大中小諸種の回遊線網計画が提言されています。【大て11-1(3)】
2-2「湖南勝区の仮指定」 大正10年(1921)8月30日
資料2-1の計画は、積極政策を掲げる堀田知事の下で、大正9年度より予算化され、昭和11年に完成を迎えました(琵琶湖周遊道路)。その一方、大正8年6月に史蹟名勝天然紀念物保存法(文化財保護法の前身)が施行されると、県は翌9年6月に滋賀県保勝会を発足させ、保存すべき景勝地等の調査も行っています。10年8月には、近江八景の名所などを「湖南勝区」と認定(仮指定)し、工場新設等の規制を強めました。(『滋賀県公報』滋賀県蔵)
2-3「湖南勝区域延長の建議案」 大正11年(1922)8月
湖南勝区は、交通の便や水質がよく、レーヨン工場の立地としても大変適していたため、大正10年6月、鐘淵紡績会社はその隣接地域(比叡辻)1万8000坪を買収し、工場建設を試みます。しかしこの地域は、「湖南勝区中ノ雄」として知られた来迎寺(11世紀に源信が再興)の門前であったことから、県保勝会の牧野信之助(県史編纂嘱託)は、県に勝区域の延長を要望しました。ただし結局この建議は認められず、大正15年に阪本製糸所が建設されます。【大お1-3(6)】
2-4「湖南勝区縮少に付請願書」 大正15年(1926)7月15日
大津の産業界もまた、湖南勝区の工業開発に大きな期待を抱いていました。大正15年7月、大津工業会は「本県ノ富ヲ増殖スル」ため、同区縮小を求める建議書を提出しています。昭和2年3月には石山村長からも、粟津の景勝地は工場建設や住宅増加の影響で既に破壊されており、到底名勝地区として保存の価値なしという意見書が出されました。その結果、昭和3年9月には、一部の指定が解除されるに至り、景勝地保存の観点は後退していくことになるのです。【明せ106(1)】
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 湖国遊覧の幕開け
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