1-1「衛生掛事務章程」 明治9年(1876)3月31日
明治9年3月31日、滋賀県は、警察署医院に衛生掛を置き、同事務章程を制定しました。衛生掛では、種痘や医者、病院、売薬に関する業務と合わせて、悪病が流行した際の対応も行うこととされました。明治13年4月には同掛を廃して衛生課を置き、同時に事務章程も改定しました。【明い249-2(11)】
1-2 「町村衛生委員の設置」 明治13年(1880)8月5日
明治13年には県衛生課や地方衛生会が設立され、県の衛生管理体制が整えられていきます。しかし、町村内において実際に人々と接する者がいなければ十分な衛生管理は行えません。そこで、より県民に近い存在として町村衛生委員が設けられ、清掃状況や流行病の有無等の日常点検にあたりました。【明い112(104)】
1-3「警察部に衛生課を置く」 明治32年(1899)4月1日
明治22年、感染症対策も含めた衛生事務は警察部保安課が担当することになります。さらに同32年には、衛生事務を独立させ衛生課を設置し、以降昭和22年に県衛生部が誕生するまで、衛生管理を警察が担うこととなります。【明い209-3(1)】
1-4「県立保健所の設置」 昭和13年(1938)5月14日
これまでの警察部衛生課による衛生管理に加え、昭和以降導入されるのが保健所による指導です。昭和13年6月4日、県立保健所設置規程に基づき本県初の保健所が長浜に設置され、県民の健康相談事業を中心とした保健衛生指導にあたりました。【昭あ100(303)】
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2-1「コレラ病患者数」 明治10年(1877)10月17日
明治10年10月、西南戦争に出征し東京へ帰る途中の兵士が、県内滞在中にコレラ病を発症しました。兵士以外にも、滋賀・栗太・神崎郡で県民にも患者が現れ、これが明治維新以降本県ではじめてのコレラ流行となりました。その患者数は10月上旬の16日間で164人、死亡者は29人に上りました。【明い96-1(11)】
2-2「明治22年の感染症患者」 明治22年(1889)
明治22年の滋賀県統計書の原稿には、明治13年の「伝染病予防規則」により「法定伝染病」と定められた6つの感染症について、その患者数と死亡者数が掲載されています。明治18年頃から県内では腸チフスの流行が繰り返されており、この年にも398人の感染者がいたことが、統計からわかります。【明お29】
2-3「滋賀県下の感染症流行状況」 昭和3年(1928)3月
昭和3年に発行された『滋賀県史 第四巻』です。第10節「衛生」の中に「伝染病」の項目が設けられており、明治期~大正期にかけての県内における感染症の流行状況について記載されています。「法定伝染病」の他にも、流行性感冒(インフルエンザ)やペスト、麻疹などの感染症が流行していたようです。(滋賀県所蔵)
2-4「知事引継書から見る感染症」 昭和11年(1936)
本県の知事引継書からも、県内の感染状況を見ることができます。引継書には、衛生課の業務として当時の特筆すべき感染症対策について記載されており、大正・昭和期に記述の多いのが結核やマラリアについてです。結核は昭和11年に県内最多の死亡者数(1616人)を記録しています。【昭お8(22)】
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3-1「谷鉄臣贈位書類」 大正6年(1917)
彦根藩士・谷鉄臣の贈位について犬上郡長からの申請書に添付の事績調書です。谷への贈位は残念ながら不充分として見合わせられましたが、この調書からはその実績を詳細に知ることができます。長崎にて蘭方医学を学んだ谷は、彦根に痘苗を持ち帰り、近江で種痘をはじめました。安政2年には井伊直弼も有効性を認め、種痘は一層普及することとなります。【大え62(29)】
3-2「種痘規則定む」 明治5年(1872)9月
明治5年9月、県は種痘規則を定めすべての幼児に種痘を受けさせるよう命じます。当時の松田道之県令は、種痘を受けさせなかったことにより幼児が天然痘に罹り命を落とすようなことがあれば、その父母は「天地ノ罪人」であるとまでいい、種痘の徹底を図りました。【明い31-2(24)】
3-3 「寄留者は種痘証携帯の件」 明治20年(1887)3月3日
本県では、種痘を徹底するため、接種が済んでいるかどうかを戸籍に赤丸を付すことで管理していました。よって、16歳未満の者が他府県へ、もしくは他府県から寄留する場合は、戸籍証とともに種痘(天然痘)証を携帯し、寄留先へ提出することでその接種を証明する必要がありました。【明い4-1(9)】
3-4「種痘の徹底に関する件」 昭和21年(1946)5月15日
昭和21年には外国からの引揚者の影響により天然痘が流行し、本県でも154人の患者が確認されました。連合国軍最高司令部からも、未種痘者と患者の発生した町村での徹底的な種痘が指示されています。徹底的な種痘実施の甲斐あってか、本県での天然痘患者はこの年を最後に確認されていません。【昭そ68(16-9)】
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