展示期間 平成30年1月22日(月曜日)~平成30年4月19日(木曜日)
平成30年(2018)は、明治元年(1868)から満150年の年に当たります。明治改元以後45年間におよぶ明治時代は、政治・経済・文化などあらゆる分野で、日本社会が急速に近代化した時期でした。その変化をもたらした立役者として、今日では伊藤博文や山県有朋など、「維新の元勲」に代表される中央政府の役割が強調されがちです。
しかし、日本中を巻き込んだ史上有数の社会改革は、当然ながら政府の力だけで実現できたわけではありません。特に、住民生活の近代化にとって、全国各地に設置された府県庁が果たした役割は大きなものがありました。明治維新の意味を、人びとの生活に即して見つめ直すには、中央の視点だけでなく、地方の視点が不可欠といえます。
今年の展示では、全4回にわたって、明治時代の滋賀県政の歩みを振り返ります。そのうち、今回の展示は、明治元年から同10年頃までを取り上げ、今日の私たちにとってなじみ深い「滋賀県」が成立するまでの過程を紹介し、小学校の設立や地方民会(議会)の導入に関わる文書など、県政草創期の公文書を数多く展示します。
1 大津県の時代 | 2 滋賀県の誕生 | 3 新しい自治の仕組み |
4 滋賀県の「文明化」 | 5 藩士たちの明治維新 | 6 「史誌編輯」の時代 |
展示図録 |
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- 作成者:滋賀県立公文書館
- カテゴリー: 滋賀県の誕生
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(1)「大津裁判所設立日の照会」 明治9年(1876)5月24日
大津裁判所とは、慶応4年(1868)に近江・若狭の新政府直轄地を治めるため設けられた地方行政機関のことです。旧大津代官屋敷に置かれ、その総督は公家の長谷信篤が任命されました。滋賀県の前身にあたる機関でしたが、その数年後には、県でも設立日が不明となっており、修史局(太政官の国史編纂所)に問い合わせています。同局は、国の進達録では長谷の総督拝命日が3月7日であるため、設立日も同日と定めていると返答しています。【明あ246合本1(25)】
(2)「県令所規則」 慶応4年(1868)8月
慶応4年閏4月、太政官は「政体書」を発布し、地方は府・藩・県が並立する三治体制となります。近江国でも大津裁判所が廃され、新たに大津県が発足しました。本規則は同県の職制を示したもので、初代知事には広島藩士の辻将曹が就いています。知事の下には、判事2名・権判事3名・判事試補1名が置かれ、東民政部・西民政部・租税部・監察部のいずれかを担いました。さらにその下には書記・伝達・掌簿など13の職が置かれています。【明お41合本2(2)】
(3)「大津県印」 (明治初年)
大津県で用いられた公印。印の大きさは6.5cm×6.5cmで、材質は石でできています。当初の県庁舎は、旧大津代官所が使われましたが、その後移転を繰り返し、明治2年(1869)1月、園城寺境内の円満院に置かれました。管轄地は幕府代官の旧支配地が中心で、近江・伊勢両国中に点在していました。廃藩置県後になされた府県統合にともない、明治4年11月には、近江国南部6郡(滋賀・栗太・野洲・甲賀・蒲生・神崎)へと大きく変更されました。【行政資料566】
(4)「議事大意条例」 明治5年(1872)1月
大津南町顕証寺で開かれた地方民会「議事所」の議事会則。大津県令松田道之の「県庁の為めに県内の人民あるにあらす、県内人民の為めに県庁あると知るへし」という「公論」重視の考えがしめされています。大里正・中里正(数か村の代表)と富裕層が「県内の公益」「人民の幸福」を議論する場として設けられました。ただし、国政に関することや、開化を妨げる議題は堅く禁じられ、議決の執行には県庁の許可が必要などの制限が存在していました。【明い36(23)】
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(5)「県名改称の達」 明治5年(1872)1月19日
大津県を滋賀県と改称するという太政官からの達。改名のきっかけは、明治4年12月、大蔵省に出された県令松田道之の要望書でした。松田によれば、旧幕府代官所が置かれた大津の名称をこのまま用いることは、「愚民」が旧習を捨てて、開化に進む障害になるといいます。県庁舎が置かれた円満院が滋賀郡別所村にあることなどから、その郡名をとって滋賀県と改めるべきだと訴えたのです。この上申は「至当」と認められ、翌年1月滋賀県と改められます。2月には長浜県も犬上県に改称し、9月に滋賀県に合併され、現在と同じ領域を統治する滋賀県が誕生しました。【明う152(13)】
(6)「初代県令松田道之」 (年代不詳)
初代滋賀県令となった松田道之は、天保10年(1839)5月、鳥取藩士久保居明の次男として生まれました。幼少の頃に両親を亡くしたため、親戚の松田発明に養われ、幕末には養父とともに尊王運動に関わりました。新政府発足後は徴士に任じられ、内国事務局権判事、京都府判事、同大参事を経て、明治4年(1871)11月に大津県令に就任しています。明治8年3月、内務省に転任し、地租改正や地方三新法の制定、琉球併合(琉球処分)に関わりました。(滋賀県蔵)
(7)「県治所見」 明治7年(1874)1月11日
松田道之が県政の当面施行すべき事業を県官員に示した指針。本文は20か条から成り、冒頭では「官必スシモ営業事務ニ明ニシテ、人民必スシモ皆ナ愚ナルニアラス」と、官がみだりに人民の私的行為に介入することを強く戒めています。まず県会を興して人民に議会の便利さを理解させ、その後区町村会の設立を促すという方法や、民費の負担が大きい学校設立を強制してはならないといった柔軟な姿勢に、松田の細やかな気配りが見て取れます。【明い246合本2(2)】
(8)「松田道之事務引継書」 明治8年(1875)4月24日
明治8年3月23日、内務省に転任した松田道之は、後継の籠手田安定のために引継書を作成します。前年の「県治所見」を補足する内容で、県会や区町村会のほかにも「私会」を設けたり、盟約を結ぶことを奨励しました。世の中の事柄や県政に関する議論が活性化して、県庁が苦しむくらいが「最モ所好」だと述べています。たとえ議論が過激になっても、国法に触れない以上は咎めてはならず、却って県政のために喜ぶべきだと懐の深さを示しています。【明い59合本5(19)】
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