滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

6-1「外客誘致に就て」 昭和4年(1929年)4月18日

 昭和3年(1928年)、国の経済審議会で外国人観光客の誘致が国策とされます。理由は第一次大戦後の慢性的な経済不況を打開するためでした。西洋では大戦後の経済振興の一環として外国人観光客誘致策がとられており、成功をおさめていたので、日本でもそれにならおうとしたのです。例えば、当時の社団法人ジャパン・ツーリスト・ビューローの調べによれば、スイスは年間200万人もの外国人観光客が訪れていたとされています。一方、当時の日本の外国人観光客は同法人の調べによると2万9千人。外国人誘致の取り組みについて日本は出遅れてしまっていると同法人は認識していたようです。国をあげての外国人観光客誘致が、ここから本格的にスタートしていきます。 【昭せ42(2)】

 

6-2「琵琶湖ホテル増資ニ関スル件」 昭和11年(1936年)

 滋賀県では外国人観光客誘致の国策に応えるとして、昭和6年(1931年)に琵琶湖ホテルの建設事業をスタートさせます。大蔵省より30万円を借り入れ、岡田信一郎の設計のもと、昭和9年(1934)年1月に起工、10月に竣工します。外観は風景との調和を考え、和風の造りとなっていますが、内装は洋式で、全ての客室に洗面所・洋式風呂・洋式便所・暖房器具が備えられており、外国人の宿泊を意識したホテルでした。大正4年(1915年)本多静六が『滋賀県風光調査報告』で、西洋人の習慣にあったホテルの必要性を説いていますが、その指摘から19年経ってようやく本多が望むホテルができたことになります。【昭お9(2-4)】

 

 


6-3「琵琶湖ホテル外観図(イラスト)」

いずれも【昭て12】

 

6-4「琵琶湖ホテル設計図(客室部分拡大図)」

バス・洗面所・洋式便所の設置がわかる。 【昭て9】

 

 

6-5「大津地方日本旅館の設備に関する件回報・照会」 昭和7年(1932年)4月

 琵琶湖ホテルの建設事業を進めていく中で、滋賀県は大津・石山にある旅館の外国人利用者数の調査を行っています。この調査では紅葉館(大津)・柳屋・三日月楼(以上、石山)といった当時「一流」と見られていた旅館の、昭和4~6年における日本人・外国人双方の宿泊者数および宴会・食事利用者数の平均が記されています(詳細は下表のとおり)。これら3つの旅館の平均利用者数の合計は、日本人宿泊者が7,048人、日本人宴会・食事利用者が39,310人、外国人宿泊者が38.8人、外国人宿泊者数が26.3人でした。この結果を受け、県は日本人による旅館利用については満足していたようですが、外国人による利用については「頗ル僅少」と評価しており、その理由を「当地方ニ外人向ノ設備全然無之ニ原因スルモノト存候、例ヘハ寝台、洋式風呂、洋式便所等ヲ設備セル旅館無キ」ためとしています。琵琶湖ホテルは、こういった大津・石山の旅館事情を克服するべく建設されたホテルだったのです。【昭て9(5-5)】

(表)
昭和4~6年大津・石山の旅館利用者数(年平均)
旅館名 日本人客宿泊利用者数 日本人客食事利用者数 外国人客宿泊利用者数 外国人客食事利用者数
紅葉館 2,924 22,656 34.6 26.3
柳屋 1,699 9,263 1.6 0
三日月楼 2,425 7,391 2.6 0
合計 7,048 39,310 38.8 26.3

 

6-6「大津市料理組合・旅館組合陳情書」昭和8年(1933年)11月18日

 外国人向けのホテルとして建設が決まった琵琶湖ホテルですが、その経営方針については外国人観光客よりも日本人観光客に重点を置くという噂がささやかれていたようです。 この噂を耳にした大津市料理組合と旅館組合は県に陳情書を提出します。地元の旅館が対象とする日本人観光客を奪うことはせずに、本来の目的である外国人向けの経営に専念し「共存共栄ノ実」をあげようと訴えています。既存の旅館にとって、琵琶湖ホテルは、これまで不十分だった外国人のおもてなしを担ってくれると期待されていた一方で、同業者として脅威とみられていたようです。一丸となって外国人観光客誘致に取り組むことの難しさがみてとれます。【昭て10-1(2-3)】

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