3-1「浜縮緬創製伝記」 明治43年(1910)4月29日
湖北の伝統産業「浜縮緬」は、元々近江縮緬と呼ばれ、宝暦2年(1752)浅井郡難波村の中村林助と乾庄九郎が始めたと言われています。同地は毎年姉川の氾濫にともなう水害のため、耕地の収益は少なく、年貢を納めるのに苦心していました。そこで林助と庄九郎は、村内の女性たちを養蚕製糸の仕事に就かせ、収入を上げようとしたのです。そんなとき、宮津庄右衛門と名乗る丹後の商人が来村し、縮緬織りの利を説きます。2人は大いに感じ入り、丹後国その他の産地を回ってその製法を学び、縮緬業を始めたのです。【明ふ54(6-2)】
3-2「織物業取締規則」 明治18年(1885)12月26日
明治維新後、浜縮緬は粗製乱造が広がり、その声価を失うことになります。これに危機感を抱いた滋賀県は、明治18年(1885)12月26日、「織物業取締規則」を発布して品質の向上をはかろうとします。翌19年3月、近江縮緬絹縮業組合が結成され、取締所が長浜町大字東本町に設置されます。21年に近江縮緬業組合、31年10月に浜縮緬同業組合と改め、製品検査の励行に努めました。【明い157(109)】
3-3「浜縮緬錬物株式会社発起認可申請ニ付上申書」 明治28年(1895)5月2日
明治28年(1895)10月には、組合有志の手で長浜町大字三ツ矢に浜縮緬練物株式会社が設立されます。「近江第一ノ名産」で知られる浜縮緬でしたが、生糸からセリシン(タンパク質)などの不純物を取り除く精練作業は、京都の仲買人に託して行っていました。余計な手間がかかり、販売価格も高騰したため、自前で実施しようと試みたのです。しかし同業者の理解が得られず、十分な改良費が集まらないため、思うような成果は上がらなかったようです。明治36年(1903)5月には解散し、個人経営に移管されることになります。 【明て72(57)】
3-4「模範工場規定」 明治36年(1903)5月26日
浜縮緬練物会社が個人経営に移管されて以後も、品質改良の試みは続けられます。明治36年6月には、県からの補助金を得て、模範工場が設立されました。同工場では、丹後縮緬四郡同業組合の技術者である永田九十蔵を雇入れ、輸出向けに「羽二重」(平織りと呼ばれる経糸と緯糸を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種)の摂取に努めました。ただしこちらも長続きはせず、明治41年(1908年)長浜町に県立工業試験場の設立が決まると、同年5月模範工場は廃止されてしまいます。江戸時代より続く在来産業の「近代化」は、そう簡単なことではなかったのです。【明て77(51)】
3-5『滋賀県実業要覧』 明治32年(1899)4月
県下で働く明治中期の「工女」たちは、地元農家の子女が多かったものの、美濃地方からやってくる場合もありました。彼女らは最初、12歳頃から機業見習いとして雇われ、25歳頃まで働いた後は、県内で結婚する場合が多かったようです。口入屋を通じて雇用主を求め、年期契約を交わすのが一般的でした。ただし年期中であっても、結婚などで退職する者も少なからずいたようです。「工女」たちは雇用主の自宅に泊まり込み、下仕を経たのち、徐々に機織りに就きました。賃金は熟練度に応じて異なり、当時の年収は、上等21~26円、中等13~16円、下等7~9円ほどでした。雇用期間が終わると祝儀として、箪笥や鏡台、その他日用品が与えられたようです。(滋賀県蔵)





