2-1「湖面占用許可に対する請書」 大正9年(1920)8月28日
大正8年8月25日、伊藤長兵衛を中心として旭人造絹糸株式会社が設立されます。人造絹糸とはレーヨンのこと。滋賀県におけるレーヨン産業の始まりです。大正9年8月13日付で工場の吸水管敷設のための湖面の占用が許可されますが、この「御請書」はその際の許可書と占用の条件を記した命令書を書き写し、その内容を承知する旨を書いて県に提出したものです。伊藤長兵衛は、伊藤忠・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛の義理の甥にあたる滋賀県出身の財界人です。しかし、旭人造絹糸株式会社は経営が軌道に乗らないまま大正11年に解散、工場は旭絹織株式会社(後の旭化成株式会社)に譲渡されています。【大ぬ9(65-1)】

2-2「献上品の儀に付上申」 大正14年(1925)1月27日
大正14年に旭絹織株式会社が貞明皇后への製品の献上を県に願い出た際に添付されていた「説明書」です。「デニール」とは糸の太さの単位で、90デニールとは長さ9kmの糸が90gであるということを表しています。これまで輸入に頼っていた90デニールのレーヨン糸の国産に初めて成功したことがアピールされています。また、「封度」とは重さの単位「ポンド」のことです。旭絹織株式会社の年間の生産額は約80万ポンド、製品は桐生、名古屋、京都西陣などの国内の織物産業の盛んな地域のほか、中国を中心に輸出もされていました。【大か22(86-2)】

2-3「昭和7年3月末50名以上の工場の業態別及び所在地並に職工数」 昭和7年(1932)7月1日
昭和7年に50名以上の職工を雇用している工場の業態・所在地・職工数を調査した結果を一覧表にまとめたものです。滋賀県内で千名以上の職工を雇用している工場は東洋レーヨン株式会社滋賀工場・旭絹織株式会社膳所工場・昭和レーヨン株式会社堅田工場の3工場だけです。昭和8年には滋賀県のレーヨン生産高は全国の45%弱を占めることになりますが、この表からもその規模の大きさがうかがわれます。【昭お5(16-15)】

2-4「水産業と人絹工場排水問題解決に関する件」 昭和11年(1936)
滋賀県で大きく発展したレーヨン産業ですが、自然環境を破壊するという負の側面もありました。特に問題となっていたのが工場の排水です。旭絹織株式会社の経営規模が大きくなり始めた大正13年(1924)頃から工場の排水が問題となり、昭和2年に東洋レーヨン株式会社が生産を開始すると状況は更に深刻になりました。昭和9年には瀬田川筋で魚が大量に死ぬ事件が起こっています。県は調査・研究の上、工場に対し設備の増設・改善を求め、水質汚染に歯止めをかけようと工場課を設置して監督にあたりますが、完全な水質保全を目指すと工場の経営に支障をきたすことにもなり、苦しい対応を迫られています。 【昭お4-1(13-2)】

2-5「晴嵐女学校設立の件申請」 昭和4年(1929)8月13日
東洋レーヨン株式会社滋賀工場の女子寄宿舎内には晴嵐女学校が設置されていました。晴嵐女学校は尋常小学校卒業者を対象に、「勤務外の余暇ヲ利用」して「婦徳ノ涵養」と「女子ニ必須ノ知識技能ヲ授」けることを目的としていました。これはその設立認可申請書に添付されていた「晴嵐女学校学則」ですが、この「学科課程」からは国語や算術、裁縫などのほか音楽や英語の授業もあったことがわかります。進学を諦めて働かなければならなかった女性たちにとって、働きながら学ぶことができるということは、日々の労働の中で心の支えともなったことでしょう。 【大し225(15)】

2-6旭絹織株式会社と東洋レーヨン株式会社
園山方面から東側を写した写真。昭和初年に撮影されたものです。中央の煙突を中心とした工場が東洋レーヨン株式会社、左奥の煙突を中心とした工場が旭絹織株式会社です。両工場の間に現在のJR・京阪石山駅があります。旭絹織株式会社の奥から東洋レーヨン株式会社の奥へと続く水面は琵琶湖が瀬田川になるところです。(『滋賀県史』)

