滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

2-1「鉄道変換の儀に付上申」 明治12年(1879年)11月17日

 明治12年10月10日付の米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達に対し、滋賀県大書記官酒井明が県令代理として提出した意見書です。その内容は(1)鉄道を敷設するのは敦賀から塩津までとし、塩津・米原間の敷設を延期すること、(2)彦根から大垣まで鉄道を敷設すること、の2点に要約することができます。北陸地方の旅客や物産を敦賀・塩津間の鉄道で、東海地方からは大垣・彦根間の鉄道で、それぞれ輸送するとともに、塩津・大津間、彦根・大津間は琵琶湖の水運を利用するというものです。しかし、琵琶湖水運を最大限活用するというこの意見書は受け入れられることはありませんでした。【明お76-5(24)】

 

2-2「敦賀・米原間鉄道敷設着手に付、諭達」明治13年(1880年)5月5日

 鉄道敷設は、土地を手放さなければならない人々にとっては、やはり負担が大きかったようです。彼らは「一己ノ苦情ヲ唱ヘ、掛員(かかりいん)ヘ対シ彼是(かれこれ)申出」ることもあったのでしょう。それに対して県令籠手田安定(こてだやすさだ)は、「鉄路敷設」は「国家公衆の便益」を図るものであると述べ、苦情や請願によって線路を変更することはないとして、心得違いがないように各村へ触れ諭すよう郡役所に指示を出しています。人々の生活と公益と、どちらを優先すべきかは当時も今も難しい問題です。なお、宛先に敦賀郡役所も含まれているのは、敦賀郡がこの当時滋賀県に属していたからです。【明い117(15)】

 

2-3「新道開墾港口修築願書」 明治13年(1880年)1月

 米原・敦賀間鉄道敷設の工部省達に対し、後に長浜町長にもなった実業家の浅見又蔵は、長浜・関ヶ原間に私設鉄道を敷設する計画のもと、この区間に新道を開設することと長浜港を修築することを県に願い出ます。添付されている株式募集の呼びかけ文には、長浜・関ヶ原間に直線の新道を開設して距離を短縮し、資本の蓄積に応じて順次鉄道を敷設し、敦賀及び関ヶ原からの陸運と琵琶湖の水運を長浜港で連絡させるという構想が述べられています。長浜を「全州(滋賀県)ノ一都会」にしようという浅見又蔵の意気込みが伝わってくる史料です。【明と9(107)】

 

2-4「其社船と陸上鉄路との連絡に係る指令書下付」 明治14年(1881年)10月12日

 滋賀県や浅見又蔵だけではなく、鉄道局長井上勝も琵琶湖の水運を利用することを考えていました。しかし、当時琵琶湖では江州丸会社や三汀社(さんていしゃ)といった汽船会社が激しい競争を繰り広げていました。井上はこれらの汽船会社を統一し、大津・長浜間の湖上運輸を担わせようとします。明治14年9月、太湖汽船会社が設立され、鉄道との連絡輸送を鉄道局に出願します。三汀社を買収していた浅見又蔵もその出願者の1人です。翌10月、鉄道局により許可されるとともに、その営業条件が太湖汽船に提示されます。この史料は、その条件を記した「指令書」を太湖汽船へと渡す際のものであると考えられます。【明い127(132)】

 

2-5「長浜港買収の通知」 明治17年(1884年)5月9日

 「新道開墾港口修築願書」を提出した浅見又蔵は、明治13年5月13日に「水路開通願書」を提出して築港工事を県に願い出ています。この願書は10月19日に許可され、11月1日着手、明治16年4月30日に竣工しています。工事にかかった費用は36,093円12銭5厘で、当初は港を利用する船から入港料を徴収する予定でした。しかしその後、浅見から太湖汽船会社への工事一切の譲渡話を経て、最終的には鉄道局が36,400円で工事を買い上げることになります。浅見は5月15日に承知する旨の「上申書」を提出、長浜港は鉄道局の管理下に置かれるようになります。【明ぬ121-2(4)】

 

2-6「敦賀・柳ヶ瀬隧道西口間、長浜・柳ヶ瀬間汽車運転の件」 明治15年(1882年)3月7日

 米原・敦賀間鉄道は、当初の計画では塩津を経由していました。しかし、明治13年1月、井上鉄道局長はその計画変更を政府に上申します。敦賀・塩津間の勾配が急であるとの理由から経由地を柳ヶ瀬とすること、また米原の立地条件や港としての機能から敦賀への起点を長浜に変更することがその内容です。この上申は翌月許可され、4月に工事に着手します。その長浜・敦賀間の工事の難所は、柳ヶ瀬トンネルでした。1352.1メートルのトンネルは、当時は日本最長のトンネルでした。トンネルを除く区間がまず開通し、その約2年後の明治17年4月16日、ようやく長浜・敦賀間が全通するのです。【明あ325-1(23)】

 

2-7「長浜・関ヶ原間鉄道落成、5月1日開業」明治16年(1883年)4月27日

 浅見又蔵の「新道開墾港口修築願書」で構想されていた長浜・関ヶ原間鉄道は国の事業として行われることになります。明治14年6月、井上鉄道局長が長浜から関ヶ原への路線延長を政府に上申、柳ヶ瀬トンネルを除く長浜・敦賀間が開通した直後の明治15年4月24日に許可され、5月5日付で長浜・関ヶ原間鉄道敷設の工部省達が出されます。長浜・関ヶ原間開通後の5月17日、井上鉄道局長はさらに大垣への延長を上申します。長浜・大垣間が全通するのは長浜・敦賀間全通直後の明治17年5月25日です。5月15日には鉄道と太湖汽船との連絡切符が発売され、日本初の鉄道連絡船が誕生します。【明と19(137)】

 

2-8「大津・長浜間鉄道線測量の件」 明治21年(1888年)1月31日

 長浜・敦賀間鉄道全通及び長浜・大垣間鉄道全通により、長浜停車場は北陸地方・東海地方からの旅客や物産を集約し、太湖汽船へと連絡する接続駅として賑わっていました。それは京阪地方からの接続駅であった大津乗車場も同様でした。しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。湖東に鉄道が開通し、東海道線が全通したのは、この翌年の明治22年7月1日のことです。全通にともない、鉄道と太湖汽船との連絡の必要がなくなったため、大津・馬場間の旅客列車は廃止されました。また、東へは長浜を経由せずに米原から向かう路線が敷設されました。汽車と鉄道連絡船の時代は終わりを告げたのです。【明い176(44)】

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