3-1「社倉積穀の儀に付告諭」 明治7年(1874)4月19日
明治2年2月5日、新政府は府県施政順序を定め、災害時の備えのために社倉の設立を各府県に促します。大津県でも明治3年8月、年齢・身分相応に籾米を積み立てるよう布告が出されました。廃藩置県後に近江国全域の管轄を任された松田道之は、明治7年4月19日、未積み立てや独自の積立てを行っている地域に、旧大津県の方式にならって積立てを行うよう布達しています。区長が県に積立高を報告することが義務付けられました。【明い81(37)】
3-2「備荒概則」 明治10年(1877)4月6日
松田の後継を務めた籠手田権令は、明治10年1月4日に地租が地価の3%から2.5%に引き下げられたことを受け、減租0.5%の半額を積み立てて凶荒に備えることにしました。この積立金は、凶作の際に公租を補うため、個人ごとになされている点が特徴的です。各区の議論により管理方法を定めるとされ、区ごとの自治的な運用が認められました。後に制定される備荒儲蓄法に基づく公儲備荒金と区別され、私蓄備荒金と呼ばれました。【明い88-2(27)】
3-3「地方官会議議事筆記」 明治11年(1878)4月27日
社倉を通じた籾米の積み立ては、町村ごとに有志の手でなされたため、思うような成果が上がりませんでした。広域積み立ての必要性を痛感した籠手田権令は、第2回地方官会議で、郡単位の公費(郡税)を設けるよう主張します。しかし政府委員の松田道之は、人民の自主性を重視したため、社倉のような積み立ては、強制的に徴収するものではないと否定的でした。多数決の結果、籠手田の提案は否決されることになります。(滋賀県蔵)
3-4「備荒儲蓄法処分規則」 明治14年(1881)4月22日
籠手田が構想した郡単位の積み立ては実現しませんでしたが、明治13年6月15日、太政官より備荒儲蓄法が公布されます。災害時の備えのために、府県ごとに徴収される公儲金と政府の補助金を積み立てることとされました。事実上の増税だとして、滋賀県下では大きな反発を生みますが、翌14年にはその運用規則が制定されることになります。それにともない私蓄備荒金は廃止され、その保管・継続方法は町村の判断に任せられることになりました。 【明い120(57)】




