2-1「戸長設置の布告」 明治5年(1872)4月7日
明治4年4月4日、太政官は戸籍法を発布し、戸籍編成のために数ヶ町村で一区を設定し、その事務を担う官吏として戸長・副戸長の設置を定めました。滋賀県では翌5年2月、村ごとに区の代表として組惣代の入札(投票)を命じています。同年4月7日にはその名称は廃止され、新たに戸長・副戸長が選出されました。さらに8月には、それぞれ総戸長・副総戸長と改められ(町村の代表は正副戸長に改称)、明治6年3月7日には区長・副区長となりました。【明い30(95)】

2-2「区長戸長ノ交代期限其選挙入札ノ方法並ニ交代ノ節事務引渡ノ規則」 明治6年(1873)11月19日
区の代表を務める正副区長は、当初は町村ごとに多様な選出方法がとられていましたが、明治6年11月19日、正副戸長(町村の代表)による間接選挙に定められました。正副戸長の選出は、町村に住む小前(一般の百姓)を含めた直接選挙とされました。全国的には官選が一般的だったなかいずれも公選で、人民の「公論」を重視する松田の考えが反映されたものと思われます。【明い44(102)】

2-3「区長戸長ヲ公撰ニ可採之建言書」 明治8年(1875)8月10日
明治8年6月に開催された地方官会議において、県会・区会などの地方民会はしばらく区戸長を議員とすることが定められます。権令籠手田安定は滋賀県における区戸長の公選経験を踏まえ、全国的にその実施を広げるよう内務省に求めました。人民による選挙は、「濫撰」(みだりに選ぶ)に流れることもあるが、次第に「濫撰ノ我ニ益ナク、而シテ吾事ニ損アルヲ知覚」するようになると、県下での公選は人民に浸透していると自信をみせています。【明お76(1)】

2-4「町村会は便宜開設いたすべし」 明治12年(1879)5月16日
明治11年7月22日、政府により区町村会の開設が許可され、滋賀県でも町村会規則が布達されました。町村会の制度化を定めた内容ですが、必ずしもその開設を義務付けなかった点に特徴がありました。当時滋賀県では、町村会がなくても村寄合など村の意思決定の仕組みが存在していたため、その慣行を生かす道を選んだのです。松田の内務省転任後に定められた規則ですが、人民の自主性を重んじた彼の精神はその後の県政に引き継がれたといえます。【明い105(39)】

