1‐1「議事大意条例」 明治5年(1872)1月
大津南町顕証寺で開かれた全国最初の地方民会「議事所」の議事会則。大津県令松田道之の「県庁の為めに県内の人民あるにあらす、県内人民の為めに県庁あると知るへし」という「公論」重視の考えが示されています。大里正・中里正(後の正副区長)と富裕層が「県内の公益」「人民の福利」を議論する場として設けられました。ただし国政に関することや、開化を妨げる議題は堅く禁じられ、議決の執行には県庁の許可が必要などの制限が存在していました。【明い36(23)】
1‐2「松田県令建議類集」 明治6年(1873)
明治6年1月31日、大蔵省より全国の地方官(府知事・県令など)に招集がかかり、「地方緊要の件」を話し合う地方官会同が4月12日から開催されます。松田道之もこの会議に参加し、積極的に地方制度に関する建議を行いました。本史料はその建議類をまとめたもので、松田が内務省に転任した際、後継の籠手田安定に送った引継書類と言われています。【明う173(8)】
1‐3「県治所見」 明治7年(1874)1月11日
松田道之が県政の当面施行すべき事業を県職員に示した指針。本文は20か条から成り、冒頭では「官必スシモ営業事務ニ明ニシテ、人民必スシモ皆ナ愚ナルニアラス」と、官がみだりに人民の私的行為に介入することを強く戒めています。まず県会を興して人民に議会の便利さを理解させ、その後区町村会の設立を促すという方法や、民費の負担が大きい学校設立を強制してはならないといった柔軟な姿勢に、松田の細やかな気配りが見て取れます。【明い246(2)】
1‐4「松田道之事務引継書」 明治8年(1875)4月24日
明治8年3月23日、内務省に転任した松田道之は、後継の籠手田安定のために引継書を作成します。前年の「県治所見」を補足する内容で、県会や区町村会のほかにも「私会」を設けたり、盟約を結ぶことを奨励しました。世の中の事柄や県政に関する議論が活性化して、県庁が苦しむくらいが「最モ所好」だと述べています。例え議論が過激になっても、国法に触れない以上は咎めてはならず、却って県政のために喜ぶべきだと懐の深さを示しています。 【明い59(19)】




