滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

3-1「製茶濫悪の品製すべからざる件告諭」 明治9年(1876年)7月10日

 茶の輸出にあたって一番の問題となっていたのは粗製濫造でした。この文書では、開港場での製茶価格の下落について、粗製品によって日本茶への信頼が失われたのが原因であると述べています。ここで特に問題になっているのは、日乾(ひぼし・釜で少し炒った後で日干ししてまた釜で乾燥させたもの)・半天(はんてん・蒸した後に日干しして釜で乾燥させたもの)・古茶を混入させた茶です。中国茶は見た目が良くても風味は良くないのに対し、日本茶はその逆なのでアメリカ人は日本茶を好んでいるのに、粗製品を混入させては今後どのような損失を生むかわからない、という言葉に政府の危機感を見て取ることができます。 【明い82(58)】

 

3-2「生糸繭茶共進会規則」 明治12年(1879年)5月19日

 明治12年、粗製濫造の防止に取り組む政府は横浜で生糸繭茶共進会を開催します。当時、日本の輸出品の第1位は生糸、第2位は茶でした。茶については、9月15日から10月15日まで開催され、その優劣が競われました。明治16年には神戸で製茶共進会が開催されています。横浜・神戸という開港場で共進会が催されたのは、国内外の商人にアピールする目的もあったのでしょう。また、明治19年には甲賀郡水口村の広業学校で滋賀県規模での製茶共進会も開催されています。 【明あ160(50)】

 

3-3「茶業者ノ注意」 明治16年(1883年)4月27日

 共進会を開催して品質改良に取り組んでも、粗製濫造を撲滅するのは容易ではありませんでした。そこへ明治16年7月1日からアメリカで「贋製茶輸入制禁条例」が施行されるという知らせが届きます。政府はこの文書を発して条例の条文を周知させるとともに、製造者たちへ注意を促します。この文書では、粗製濫造の原因も分析されています。当時、外国人商人を通さずに茶を輸出するのは難しい状況でしたが、その外国人商人が粗製茶を着色しているというのです。その結果、茶葉の価格が下落し、製造者はその損失を補うために粗製濫造を行い、さらに信用を失うという悪循環に陥っていました。粗製濫造を防ぐには、貿易の仕組みを改善する必要もあったのです。【明い142-4(8)】

 

3-4「製茶共進会規則中製茶集談会手続及問題」 明治16年(1883年)7月27日

 明治16年9月1日から神戸で開催された製茶共進会では、製品の優劣を競うだけではなく、製茶集談会も開催されました。各地の有力な製造者・茶商人を集め、茶業について議論させたのです。その「問題(=議題)」には、粗製濫造の防止については各地に組合を設立して品質改良に取り組むこと、貿易問題については再製・荷造所を各地に設立して外国人商人を通さない直輸出の仕組みを整えることや、海外に視察員を派遣して実情を明らかにし、紅茶の販路を開拓することが設定されていました。この集談会での議論をもとに、組合設立による取り締まりが本格化するのです。 【明あ205(4)】

 

3-5「近江国茶業組合規約」 明治17年(1884年)4月9日

 製茶集談会に先立ち、滋賀県では明治16年4月25日に「製茶業者取締仮規則」を出して、製茶業者に組合を設立するよう指示していました。同年11月12日、製茶同業会で「近江製茶組合取締規約」が議決され、翌年2月12日、県はその規約を認可します。しかし、その直後の3月3日に政府が「茶業組合準則」を発し、製品に組合の名称等を明記すること、組合員は府県庁の検印を受けた証票を携帯すること、取締所を設置することなどを定めます。その準則に合わせて改正されたのがこの規約です。取締所は滋賀郡大津町に設置されました。さらに5月9日、県は「茶業組合規則」を出して取り締まりを強化しています。【明い153-1(35)】

 

3-6「製茶ノ事」

 組合による取り締まりの一方、明治18年には滋賀県は県内の有志者を集めて茶の再製を行った上、大倉組に委託してニューヨークに輸出しています。翌年のこの文書では、「追々心ヲ直輸ニ傾クル者アリ」としていますが、利益が確定するまで待つことのできない資本力の弱い製造者のために、再製所に茶を集めた際に仮価格の何割かの資金を前貸しする方法を設けることが必要であるとしています。また、粗製濫造の防止については、各府県での取り締まりには限界があるため、政府による取り締まりが重要であるとして、神戸・横浜・長崎などの要港に製茶の検査所を設けることが提案されています。【明お45(37)】

 

3-7「製茶ニ係ル告諭」 明治19年(1886年)4月1日

 横浜・神戸・長崎への検査所の設置は、政府が「製茶検査法」を「茶業組合準則」に追加したことを受けて茶業組合中央本部会議で議決されました。しかし、滋賀県令中井弘は、開港場には「多年ノ弊習」があるため充分に検査するのは難しいとして、油断せずに品質改良に努力するよう告諭を出しています。また、前年にサンフランシスコで日本茶が高い評価を得たことに触れつつ、アメリカは日本茶だけを飲んでいるわけではなく、中国・インドといった強力な「供給者」がいるほか、コーヒーという相手もいると述べ、一時の高評価で安心しないよう気を引き締めさせています。日本茶は中国緑茶と市場を争っていましたが、そこへ徐々にインドの紅茶が進出してきていました。【明い1-1(1)】

 

3-8「一般ノ観察」 明治32年(1899年)4月

 品質改良と直輸出を2本の柱として輸出拡大に取り組んできた滋賀県ですが、直輸出は一時増加するものの年々減少し、この頃は茶商人を通しての輸出となっていました。その後は、国内向けの生産が中心になっていきます。滋賀県は気候が寒冷なため、伊勢・駿河・遠江地方で二番茶を出荷する頃にようやく一番茶を出荷するという「不利ノ地位」にあったのです。また、製法の改良に取り組む気運が乏しいとも述べられています。しかし、人類の喫茶の嗜好は絶えることがないので、製品の改良・費用の削減・機械の運用に努力を重ね、世間の人々の嗜好に適した茶を作ることができれば、今日の衰退は決して憂慮する必要がないとして、茶業者の一層の努力を求めています。 『滋賀県実業要覧』(滋賀県所蔵)

 

3-9「全国茶業者大会議題」 明治32年(1899年)4月24日

 アメリカへの日本茶の輸出自体は順調に増加し、緑茶では20世紀初めに中国を抜いて第1位に立ちます。また、カナダの緑茶市場では圧倒的なシェアを占めていました。その一方で、インド・セイロンの紅茶も急速に市場を拡大していました。この文書は、カナダで提出された製茶課税法に対して、日本の製茶を倒して世界の製茶供給権を独占しようとするインド・セイロンの製茶業者の陰謀であるとして、一致団結して抗議することを呼びかけたものです。インド・セイロン紅茶に対する危機感が伝わってきます。その後、日本の緑茶はインド・セイロン紅茶に市場を奪われてしまいます。一方、日本国内の軽工業の発達とともに茶は輸出品の中での地位を低下させていくのです。【明て59-3(1)】

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