滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

2-1「紅茶製法書」明治7年(1874年)4月25日

 明治7年4月25日、「紅茶製法書」が各府県に配布されます。この当時、日本の緑茶は主にアメリカに輸出されていましたが、茶の輸出拡大を目指す明治政府は「海外各国ノ好ム」紅茶の製造に取り組むことにしたのです。そこで紅茶の輸出大国であった中国の製法を研究し、この「製法書」によって国内に広く普及させようとしました。しかし、この紅茶は海外では不評でした。この「製法書」では「天然ノ山茶、薮茶、所謂(いわゆる)捨作リノ茶、又ハ山開キ原開キ等ニ植付ケタル茶」、つまり「上好(じょうこう)ノ製ニ不適(てきせざる)」茶で製造するようにと指示されていますが、これでは低い評価しか得られなかったのも当然かもしれません。 【明あ107(8)】

 

2-2「紅茶製法伝習規則」 明治11年(1878年)1月17日

 「紅茶製法書」により製造した紅茶が不評だったため、政府は紅茶製造の新興国であるインドの製法を研究し、高知県内で試製してそれが外国人の嗜好に合うことを確認します。そして、この規則を発布し、粗製濫造を防ぐために伝習所を設けてその製法を指導することにしました。この年、静岡県に開設された勧農局出張伝習所に滋賀県からは4名が応募して3名が卒業しています。また翌12年には、滋賀県のほか東京府・三重県・静岡県で伝習所が開設されています。滋賀県の伝習所は、5月15日から9月20日まで甲賀郡土山村で開設され、近隣の2府9県から42名が参加して23名が卒業しています。 【明あ152(1)】

 

2-3「紅茶取扱規則」 明治13年(1880年)

 紅茶製造伝習所での指導の結果、滋賀県でも紅茶の製造者が増加していきます。しかし、その生産量はごく僅かで、流通ルートに乗せることも難しい状況でした。そこで県は、土山村の閉鎖された紅茶製造伝習所を利用して紅茶取扱所を開設します。県内で生産された紅茶を集め、品質に応じて5等級に分類し、三井物産会社・大倉組に販売や海外輸出を委託したのです。また、輸出はその利益が確定するまで時間がかかるため、取扱所に持ち込まれた紅茶の時価の7割までの資金を希望する者に貸与していました。さらに、紅茶の取り扱いが終了した秋には、同じ場所で再製茶伝習所を開設し、緑茶の輸出には欠かせない茶葉の乾燥作業=再製を指導しています。『滋賀県勧業課年報第二回』(滋賀県所蔵)

 

2-4「英国倫敦送紅茶量数及売価」 明治14年(1881年)

 前年(明治13年)に紅茶取扱所に集められた紅茶を三井物産会社に委託してロンドンで売却した価格表です。白毫(ペコ―)・小種(スーチョン)・工夫(コンゴー)の3種類、総重量3,912ポンドで代金は166ポンド10ペンスとなっています。また、続けて再製茶伝習所で製造した再製茶を三井物産会社・大倉組に委託してニューヨークで売却した価格表も記載されています。こちらは、緑茶とその粉茶をあわせた総重量12,320ポンドで2,316ドル60セントとなっています。緑茶の再製はもともと西洋人に雇われた中国人しか行うことができませんでした。日本人の手でその作業を行うことは緑茶の直輸出を推進する上で必要不可欠なことだったのです。 『滋賀県勧業課年報第三回』(滋賀県所蔵)

 

2-5「紅茶製造所取調方回答」 明治36年(1903年)1月29日

 明治政府の目指した紅茶による輸出拡大は、結局は成功しませんでした。その理由を『滋賀県実業要覧』(明治32年)では「微力ナル地方製造家ノ能ク経営シ得サル処」と分析しています。この時期はインドがプランテーションでの大規模栽培によって、紅茶市場での勢力を拡大していました。明治35年の大津市と各郡からの茶の製造に関する報告書では、紅茶の製造は大津市の5貫目(18.75kg)だけが記載されています。翌年になって県は大津市にその製造場所を問い合わせていますが、大津市はこの文書で昨年7月までは大津市東今颪町で製造されていたが、「近来ハ製造不致(いたさず)候」と回答しています。 【明た40(77)】

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