3-1「郡制施行上坂田・東浅井両郡分合ノ義ニ付上申」 明治23年(1890)10月
坂田・東浅井郡長木村広凱による両郡の合併・分離に関する上申書。坂田・東浅井の両郡は、それまで1つの行政区とされていましたが、郡制施行にともない、合併・分離の判断を県から求められていました。木村郡長は両郡の町村長・県会議員を集めて意見を聞いたところ、合併派と分離派に見解が分かれました。やむく木村郡長は、多数の意見である合併を上申することに決め、新たな郡名は両郡から各1字を取って「坂井郡」が適当と答えました。【明ふ59(2)】
3-2「行政区画変更事由書」 明治23年(1890)11月
しかしその後も両郡の合併・分離両派は、互いに主張を譲らず、県庁に陳情を重ねます。県知事岩崎小次郎は、当初は木村郡長の上申通り、両郡の合併を検討していたものの、両派の激しい対立に危機感を強めました。このまま合併しても「到底協和結合ノ望ミナキ」として、両郡の分離を内務大臣に上申することになります。その結果、帝国議会に提出された郡の合併に関する法案では、坂田・東浅井両郡が取り上げられることはありませんでした。【明こ166-3(1)】
3-3「郡分合ニ付建議」 明治24年(1891)12月12日
坂田・東浅井両郡の合併・分離問題は泥沼の争いとなっていきました。これに見かねた愛知郡選出の横田耕(こう)議員より、内務大臣宛ての建議案が通常県会に提出されます。合併・分離両派とも主張に偏りがあるため、坂田郡を流れる天野川を境に、同郡南部を犬上郡、北部を東浅井郡に分割するのが「公平」だというのです。これに対して、坂田郡選出の上田喜陸(きりく)議員から反対意見が述べられますが、結局は横田案が過半数を得て可決されることになります。【明き16(32)】
3-4「知事不信任をめぐる議論] 明治25年(1892)1月6日
坂田郡の分割建議に憤慨したのが坂田郡の住民たちでした。赴任したばかりの大越亨(とおる)知事も、自ら実地調査したところ、水利の関係上とても天野川を境に分割できないことを悟ります。県会議長らは建議に基づき、上京して内務省との折衝を重ねますが、知事の協力を得られず、坂田郡の分割は実現の見込みがないと拒絶されました。そこで臨時県会では、知事の「食言」(嘘)を日誌(議事録)に書き込むという不信任決議が可決されてしまうのです。(『県会日誌』議会事務局蔵)
3-5「品川内務大臣県会解散命令] 明治25年(1892)2月4日
不信任を突きつけられた大越知事は、県庁移転騒動に続く同年度2回目となる県会中止を決断します。さらに事態を重く見た大越知事は、硬派と称する「破壊主義」の議員らが県会を牛耳っていると、内務省に県会の解散を求めました。そして同大臣品川弥二郎より、滋賀県会の議決は「国ノ安寧ヲ妨害スルモノ」だとして、滋賀県政史上前代未聞の県会解散が命じられることになるのです。【明き19(15)】





