1‐1「河辺党と山嶽党の対立」 明治23年(1890)11月14日
明治23年の県会は、瀬田川浚渫(しゅんせつ )事業の負担をめぐって大きな対立が生じていました。琵琶湖の水害に悩まされ続けてきた沿湖在住の「河辺党」と、浚渫事業にかかる「巨万ノ金」の負担を忌避する「山嶽党」との争いです。この事業が提案される背景には、明治22年2月、瀬田川に架設された鉄道橋が流水の妨げになっているという危機感がありました。喧々諤々(けんけんがくがく) の議論の末、原案25票、全廃23票の僅差で、同事業は可決されることになります。(『県会日誌』議会事務局蔵)
1‐2「勢田川鉄道橋に係る除害の儀につき建議」 明治24年(1891)12月15日
県会にて浚渫(しゅんせつ)事業の可決を受けた岩崎小次郎知事は、明治23年11月19日、その認可を内務大臣に申請します。しかし流水量の増減は下流の利害に関わることから、京阪2府から強い反対があり実現にはいたりませんでした。その後赴任した大越亨(とおる) 知事も、翌年9月30日に上申書を提出しますが、鉄道橋架設による流水への影響が認められないと拒絶されます。県会は反発を強め、「県民ノ疾苦」を考慮するよう内務大臣に建議を行いました。 (『滋賀県会歴史』第1編7)


