3-1「明治維新後の山林の状況」 明治13年(1880)7月9日
明治12年3月19日、内務省地理局は「山林沿革史」編纂のため、山林関係の書類や古くから伝わる慣習などの調査を県に依頼しました。本史料は県から提出されたその調査結果です。この報告書によれば、明治維新後、滋賀県では桑・茶園の開墾や、製茶・陶器製造のための薪炭需要の高まりから、乱伐が激しくなっていたといいます。また米価の高騰により農家に余裕が生まれ、家屋の建築が進んだことも背景にあったようです。【明ち312(30)】
3-2「山林保護の諭達」 明治13年(1880)12月14日
政府による山林の保護規制は官林にとどまらず、民有林にもおよびました。明治13年12月3日、内務省は府県に対し、官民有に関わりなく「山林保護ノ道」を立てるよう注意をうながします。滋賀県では、この通達を受けた大書記官河田景福が、各自が山林を愛護し、植栽に尽力して乱伐を戒めるよう諭達しました。山林の保護をおこたれば、全国の殖産の道を妨げ、一家の需要の欠乏をきたすと説いています。【明い115-3(9)】
3-3「共有森林分配の告諭」 明治14年(1881)1月18日
県独自の取り組みとしては、県令籠手田安定が、共有森林をなるべく細かく分割配当(≠私有)するよう促した本告諭が注目されます。共有森林は個人が保持するものではないため、たとえ所有者に森林保護の考えをもつ者がいても、全員の意見が合わなければ守られません。当時の森林所有者たちは各々競って樹木を伐採し、将来の利害を顧みなかったようです。そこで籠手田は、家ごとに利用範囲を割り当て(割山)、乱伐を防止しようと試みたのです。【明い233(3)】
3-4「流域諸山取締条例」 明治16年(1883)12月24日
明治15年2月1日には、太政官と農商務省より国土保安に関わる民有林の伐採が禁じられています。これらの山林は伐木停止林と呼ばれ、民有林であっても利用が制限されました。滋賀県では本条例が出され、野洲川などの流域で、土砂扞止を理由に利用が制限されました。樹木の伐採や草根の採掘などを希望する者は、利用の6か月前に願い出ることが義務付けられ、違反者には、2~5日の拘留、もしくは50銭~1円50銭の罰金が処せられました。【明い136(50)】
3-5「共有山林保護例」 明治17年(1884)3月21日
民有林のうち共有山林の保護を定めた条例。共有山林をもつ町村は連合して林区を結成し、山林保護のための取締規約を定めるよう取り決められました。稚樹(若木)伐採の禁止と樹苗の植栽が推奨され、林区内の町村ごとに1名ずつ保護掛を選定することとされました。その一方で、伐木停止林であっても取締規約を作成すれば、選伐・輪伐(森林を区切って順番に伐採すること)や柴草の伐採は認められることになりました。【明い144(34)】
3-6「民林取締規則」 明治19年(1885)7月1日
県令中井弘より出された、県下初の体系的な民有林保護規則。水源涵養や土砂扞止、雪崩の防止に関わる民有林は国土保安林と定められ、柴草刈り取りや落ち葉拾いなどの作業も一切禁じられました。ただし厳重な規約を設け、県庁の認可を受けた場合は利用が許可されています。保安林制度が全国的に整備されるのは、明治31年の森林法施行まで待つことになりますが、それ以前の山林保護は、県独自の条例・規則が重要な意味をもっていたのです。【明い162(114)】
3-7「共有山林保護規約例」 明治17年(1884)12月26日
民有林山林保護例を受けて、滋賀郡坂ノ下村(現大津市)ほか3か村は、南葛川山林区を結成し、本規約を定めました。各村に設置された保護掛は、野火・盗伐・虫害などの予防に努め、毎年針葉樹苗を植えることとされました。共有山林の火入れは一切禁じられましたが、草刈り場については、許可を得れば認められたようです。山林の保護は、政府・県による一括した管理が行われたわけではなく、地域ごとの自治的な運営に支えられていました。【明ち257-2(1)】
3-8「共有山林保護規約例付図」 明治17年(1884)
上記史料の付図です。戸長や村惣代とともに(山林)保護掛の名がみられ、共有山林や草刈り場は色が塗られています。【明ち257-2(1)】








