1‐1「地券取調掛取扱心得方凡例書」 明治5年(1872)8月
明治5年2月、大蔵省は「地券渡方規則」を府県に布達し、土地の永代売買の許可と地券の発行を命じました。これを受け滋賀県では、同年8月、田畑などの面積(反別)を提出するよう管内に布達します。本史料は、県より正副総戸長(数か町村が属する区の代表)や正副戸長(町村の代表)に、その調査手順を具体的に示したものです。境界が不分明で田畑・山林が入り混じっている村は、争いのもとになるため、合併してもよいと指示しています。【明い31(36)】
1‐2「立会の山林原野分割の告諭」 明治6年(1873)7月18日
地券発行に際して、県令松田道之が管内の村々に示した告諭。複数の村が利用する入会(立会)の山林原野を、なるべく細かく分割するよう指示しています。ただし数十か村が利用する広大な山野は、無理に分割すれば争いが生じる可能性があるため例外を設けました。そのような山野は、東西南北の境界を記した絵図に、村々の連印を押して提出することとされました。山野利用をめぐる村同士の争いの深刻さは、県当局もよく理解するところだったのです。【明い231(90)】
1‐3「草立合刈場土砂留の儀に付御願書」 明治10年(1875)9月24日
蒲生郡北脇村の持ち山は、地租改正にともなう紛争の後、北脇村・瓜生津村・石谷村の3か村で共同利用(立会)されてきました。しかしその後、瓜生津村と石谷村は、茶畑の肥料に用いるため、草木を刈り荒らしたようです。そのため北脇村の耕地に土砂が流れ、大きな損害が出るようになります。本史料で同村総代たちは、瓜生津・石谷両村が至急、土砂留めを行うように県からの説諭を願い出ています。【明ち327(1)】
1‐4「近江国蒲生郡鎌掛村之絵図」 明治14年(1879)
蒲生郡南東部に位置する日野山は、近隣の多数の町村が共同利用していた山で、地租改正事業は関係町村の利害が絡み合って難航を極めました。本絵図で描かれた原山と呼ばれる区域は、鎌掛村の北方と南西に広がる山地で、江戸時代には15か町村が利用していました。しかし明治5年の地券発行の際、鎌掛村がその所有権を主張し、これに異を唱える日野大窪町・上野田こうずけだ 村と激しい争論が繰り広げられました。【明な232(6)】




