滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

3-1「商業学校規則」 明治19年(1886)3月4日

 大津町に置かれた滋賀県商業学校の規則。伝統的に近江商人は、信頼のおける近江出身者を雇用し、ゆくゆく別家(暖簾分け)の設立を想定した丁稚奉公人を育成する仕組みをもっていました。しかし次第に、近代産業に応じた実業教育の必要性が説かれるようになり、明治19年には県令中井弘の主導で滋賀県商業学校が設立されました。府県立としては、全国初の商業学校でした。【明い162(37)】

 

3-2「商業学校移転の議論」 明治31年(1898)12月22日

 商業学校の運営が軌道に乗り、校舎改築の要望が高まると、神崎郡と蒲生郡(八幡町)の間で激しい誘致運動が展開されるようになりました。最終的に県会で八幡町への移転が決まり、明治34年4月、八幡町に隣接した蒲生郡宇津呂村に本館が建てられました。同年6月に滋賀県立商業学校と改称し、明治41年には滋賀県立八幡商業学校となります。多数の優秀な経営者を輩出したことで、「近江商人の士官学校」とも呼ばれました。(『県会日誌』議会事務局蔵)

 

3-3『新近江商人』第155号 昭和17年(1942)11月1日

 八幡商業高等学校の校報。連載「その頃の母校を語る」のなかで、第27回卒業生の広瀬了義(野洲郡北里村出身)は、日露戦争直後は全国の中流階級の子弟が多く、学資も潤沢で「モダンボーイ」もいたと回想しています。その一方、まだ自転車が「民衆化」していなかったため、過半は「テク党」(徒歩)だったようです。また校内で仏教派とキリスト教派の対立が激しくなり、英語教師だったヴォーリズが同校を去った逸話も伝えています。(滋賀県蔵)

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