1‐1「江州バンク設立伺書」 明治5年(1872)4月
大津県が滋賀県に改称してまもなく、権参事桑田安定らは、県内初の銀行「江州バンク」の設立について大蔵省に伺い出ています。このなかで桑田らは、県内には「富豪之民」が多く、東京・函館・松前などに出店して交易をなす「江州商人」が世に名高いものの、彼らはもっぱら各自の事業に務め、規模も小さく、共同して遠大な事業に着目しないと批判しています。この「江州バンク」構想は、近江商人の代わりに投資をうながそうとしたものでした。【明う155(33)】
1‐2「勧業の儀に付伺書」 明治8年(1875)3月19日
県令松田道之が内務省に提出した、政府の勧業費援助を求める伺書。この文書のなかでも、滋賀県は風土や地質に恵まれて富豪も多いが、商家は出稼ぎが多く、自国(県内)に向けて事業を興す者が少ないと、近江商人が批判の対象となっています。「他国稼ぎ」を生業とする近江商人は、滋賀県内の産業化を推進する県令たちにとって、あまり望ましい存在とはみなされていなかったようです。 【明う21(98)】
1‐3「勧業社規則」 明治5年(1872)4月
「国益民福を為す者」への融資を目的とした結社の規則。能登川商人の阿部市郎兵衛が県庁に千両を寄付したことがきっかけで設立されました。阿部は古くより窮民救助に尽力していた人物で、この結社も貸付金の利息の一部が窮民救助に用いられました。阿部に加えて、日野商人の正野玄三が500両、中井源左衛門が700両など、近江商人も多額の資金を同社に提供しています。近江商人たちも、決して県内の動向に無関心でいたわけではなかったのです。【明い30(49)】
1‐4「近江商人の由来」 大正元年(1912)
滋賀県の商工業振興のためにまとめられた『滋賀県がいどぶつく』の冒頭には、「近江商人の由来」が掲載されています。同書によれば、資本集中が進んだ明治維新後も、近江商人は単独経営の「旧習」を改めず、維新以前からの得意先に商品の卸売りを営む者が多かったようです。しかし東京に店を構える近江商人は2千戸にのぼり、個人営業者のなかで第1位となっています。また大阪・京都でも大きな影響力をもっていたようです。(『滋賀県がいどぶつく』第2巻、滋賀県蔵)
1‐5「商法会議所設立の儀に付上申」 明治12年(1879)10月15日
江戸時代の大津は、琵琶湖の水運を生かして物資流通の集散地として繁栄し、約6千戸のうち過半が商業者で占められていました。そのため商工業者の代表の集まりである商法会議所が、東京・大阪に次いで全国3番目に設立されています。初代会頭には三井銀行元締の堀口嘉右衛門が就任し、事務所は大津白玉町八番屋敷に置かれました。その後大津は、東海道線の開通により、次第に商業都市の性格を弱めていくことになります。【明う29(19)】





