滋賀県管内全図
西明寺境内見取図
神崎郡山上村役場簿書蔵置所
県庁周辺図(園城寺并付属地境内図)
滋賀県史(府県史料)
県名改称の布告

   

3-1「貧困者の実態に関する下問奉答書」 大正5年(1916)6月

 明治政府の貧困者に対する救恤は、極めて限定的なものでしたが、大正期になると大規模な実態調査が開始されます。当時は大正3年より米価が急激に下落していた一方、第一次大戦の影響で日用品が高騰していたためです。県の調査によると、中農以上の窮乏化により農家経済が緊縮したため、日雇労働に従事する貧困者も収入が減少したようです。しかし彼らは、そのほとんどを食費(米代)にあてていたため、物価騰貴の影響は小さいとしています。【明え266-3(1)】

 

3-2「米価対策の告諭」 大正7年(1918)8月12日

 大正7年に入ると、それまで下落していた米価が急に高騰し始め、米騒動と呼ばれる民衆の米の廉売強要や打ちこわしが全国に広がりました。これに危機感を抱いた県知事森正隆は、(1)米商に売り惜しみや買い占めを戒めさせる、(2)政府に外国米を請求して郡市に配布する、(3)地方の富豪・篤志家に寄付を募り廉売を行わせる、(4)公費をもって救済する、の4つの米価対策を公表し、県内への波及を防ごうとしました。【大そ37(1)】

 

3-3「栗太郡山田村の不穏な噂」 大正7年(1918)8月14日

 大正7年の米価騰貴により、貧困者の多くは一層の生活難に陥っていました。そのような中、栗太郡山田村内の集落では、住民たちが京阪神地方の米騒動の噂を耳にし、8月12日夜に草津町の米商と居住地の区長を襲う計画を立てているという風評が流れます。しかし村長の迅速な対応に加え、14日に村内の有志者が300円、草津の米商が白米7斗5升の寄付を申し出たことで、大事には至りませんでした。【大そ37(16)】

 

3-4「下賜金配当を求める御願書」 大正7年(1918)8月24日

 栗太郡山田村の労働者・米田元二郎による下賜金配当を求める御願書。村長は配当の必要性を認めなかったものの、米田が「性質獰悪」「素行不良」の上、4月頃に工場で賃金値上げの「同盟罷工」(ストライキ)を企てたほどの人物であることに懸念を抱きました。そこで、再び他人を煽動してどのような「不心得ノ所為」をするかわからないとして、特別に米の廉売券を交付することに決めるのです。この「寛容な」対応の背景には、上記の不穏な噂がありました。【大そ37(14)】

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